境内に南北朝頃のものとみられる宝篋印塔が二基あり、有力な武士の存在をうかがわせる。伝承によれば、宮守長左衛門義益の子・次郎左衛門光治が川合に住んでいて、南朝に味方していたという。
承久の乱後も倒幕の機会をうかがっていた貴族たちは、蒙古来襲による動揺を機に、後醍醐天皇を中心として鎌倉幕府を滅ぼし、再び天皇政治が行われることになった(建武中興)。しかし、内部では公武の対立抗争が激しく、足利尊氏らが武家政権再建に立ち上がり、中興政治は二年で終わった。やがて、後醍醐天皇は吉野に南朝を構え、足利氏は京都に北朝を立て、両朝は五七年間にわたる抗争をつづけた。建武四年(1337)十月の『大江信員軍忠状写』によれば揖斐地域もその戦場となった。
後醍醐天皇が吉野に移った翌年の延元二年-建武四年の三月、越前国金崎城が落城し、南朝方の新田義顕が戦死した。義顕の一族である堀口貞満は、美濃へ侵入して根尾谷から谷汲へ進出する。これに対し、美濃の北朝方が挑んだ戦いの一つが『軍忠状』に記されている。戦いは揖斐野から春日村池戸、下狩宇(下ヶ流)・上狩宇(上ヶ流)へと広がった。『軍忠状』に登場する小笠原政長の父・貞宗(彦五郎)は北条氏を討った功績により、後醍醐天皇から美濃国安八郡中河御厨の地頭職を与えられていた。政長自身も建武四年(1337年)、足利尊氏から同じ地頭職を勲功として与えられている。
史料に見える堀部太郎兵衛尉は、下ヶ流城主であったとする説がある。戦いでは北朝方の捕虜となったため、南朝方の武士であったと考えられる。城址の位置は定かではないものの、下ヶ流には「太郎兵衛谷」という地名が残っている。
参考:春日村史編集委員会『春日村史 上巻』(岐阜県揖斐郡春日村、昭和五八年)95、96頁