木曽山林及び飛騨川・木曽川の運材の管理をしていた山村家の屋敷。
慶長五年(1600)七月関ケ原の戦いが起こるや、木曽代官の石川氏は石田三成方へくみし、下代官の原孫右エ門、原左エ門兄弟に贄川関所を託して木曽を立ち去った。このとき家康は会津の上杉討伐のため関東にあって、我が子秀忠をして先ず東山道を西上せしめたれば、木曽の難所を無事通過させることが肝要であった。大久保長安らは、木曽では子供から猟銃を用い、ゲリラ戦となると苦戦するので、旧領主を先鋒に出して、帰順させる方が有効であると提案し、受け入れられた。木曽代官石川光吉を攻めるには木曽氏は評価が低く、山村甚兵衛・千村平右衛門・馬場半左衛門が呼び出され、木曽の平定が求められた。
山村、千村らは小山を出立するときは同志わずかに数十人に過ぎなかったが、檄文を受けて、甲信に隠れていた一族同類中馳せ参ずる者数多く、なかでも原図書介、三尾将監、千村次郎右エ門、松原彦右エ門、玉置清八(須原五郎右エ門と改名)等は木曽にいて内応し、わざわざ塩尻まで参じて秀忠公木曽通過の先導に加わった。八月十二日、木曽へ入った山村、千村らは難なく木曽を占有し、九月十六日、秀忠公は福島なる木曽氏の旧館へ宿泊もされにつつがなく、一七日妻籠城において東軍の勝報を受け取った。
関ヶ原の戦い後、家康は美濃を幕府の直轄領とし、元和元年には木曽を尾州領に組み入れた。山村家は尾州徳川の家臣で、また幕府代官として福島の関守も兼ねていた。家康から木曽代官に指名され、知行山を拝領したことから、将軍や自家の代替わりの際は参府して将軍に拝謁した。名古屋に3,477坪、また元和元年に江戸金杉に2,433坪の屋敷を持っていた。
山村家の家臣は二百人余で旧木曽家や旧武田家の浪人から採用されたものが多い。山村家の屋敷内に年寄役所、勘定所が、屋敷外に出入りの多い用達役所や材木役所が置かれた。
一、用達役所は一般政務をとり合議制であった。
一、材木役所は、林政につき尾州の材木役所と立会裁許し、材木役所は山方事務が尾州直営となってからは、一般山林取締りのほか、寺社奉行を兼ねたようである。
一、年寄役所は家老の合議制であった。
一、勘定所は一切の会計事務を扱った。
江戸尾張の両屋敷に居留守役をおいて、連絡交渉に当たらせた。中津川には代官所をおき知行米の収納を行った。宿村には享保以前まで代官をおき、尾州家への年貢収納、下用米払渡の事務を扱った。福島に目明し役二人、上松、須原、三留野、馬篭、贄川にそれぞれ一人おき十手捕縛を扱わせ、福島のうち一人が目明し役頭を仰せ付けられた。目明し役は町人から採用された。
木曽山には鷹狩りに用いられる鷹の子を捕獲する巣山があり、多い時は64カ所に及んでいた。尾張藩はこの山での伐採、下草の草刈を許さず囲いを施し、巣鷹役人を置いて見廻りを怠らなかった。
寛文年間(1661-73)初めには御嶽山麓近くまで尽山が広がり、寛文三年(1663)八月には木曽川上流で美濃苗木藩の家臣が尾張藩の用材を公然と略奪する事件が起き、山村家の川並支配が問われる事態となった(『木曽山村家留書抜粋』)。寛文4年(1664)尾張藩は第一回木曽山巡見を行い「これよりさき領民頗る濫伐を極めたり」と報告。ときの山代官山村良豊は快く思わず、山方林政一切の行政を辞退し、以後は藩で直接支配されたいと申し出た。翌年、出願のように山方一切を藩の直轄とした。山村家の委託統治は山林の取締りを含めた村方の支配だけに限定されるようになった。木曾山林の管理は上松の藩直属の材木役所が、飛騨川・木曽川の運材管理は運材要地の錦織・牧野の材木役所の所管に改められた。
参考:
大矢兼成、加藤鐐三、蟹江猛、佐々木焏三、森留吉『筏』(日本いかだ史研究会、昭和54年)13、14、22、23頁
『大桑村誌 上巻』(大桑村、昭和六十三年)190、191頁