大野郡。平城である。
稲葉伊予守一鐵が天正十年(1582)頃、秀吉の不審を蒙り、曽根から移り、城を築いて居城した。天正十六年(1588)十一月十九日、当城にて没す。のち、稲葉通重が、大野郡清水で稲葉甲斐守通重が一万五千石を食んだという。
大野郡清水というのは、揖斐より十八町ほど東の郷村である。この地の白石の里に「姫ヶ井」という霊水が湧き出る所があり、この縁を以って「清水」といったという説があるものの詳らかでない。
往古この地は、暦応年中(1338-1342)に土岐弾正少弼頼遠の領地であった。そうしたところ同五年(1342)、頼遠は京都において持明院の御幸に行き会い、不慮の狼藉をふるまった罪によって誅殺されたため、その弟である律師周斎坊が続いて領した。周斎坊は夢窓国師の弟子であり、清水の山の麓に◎清水山釣月寺を建立して、その師・国師の隠居所として進上し、夢窓国師が住んだ。そうして周斎坊の寄付により、清水は◎釣月寺の寺領となった。やがて貞和年中(1345-1350)、東美濃土岐郡高田の郷に定林寺を建立し、夢窓国師はこの寺に移り、その跡の◎釣月寺へは国師の弟子・嬾椿和尚が入った。
※この段落、詳しくは◎釣月院へ
さてその頃、南北朝の対立で京都を逃れた北朝方が池田郡の瑞岩寺まで逃れた。そして足利尊氏の上洛までここを拠点にしていたのである。その時、◎釣月寺が土岐大膳大夫頼康の祈願所であったことから勅使を立てることとなり、大炊御門中納言家信に命じて赴かせた。その際に、雨宿りをしていた勅使をその家の主人の杉原与左衛門という者が家中に招き、酒と肴の杭瀬川の鮎を献じたところ、深く喜んだ。これを聞いた帝は、与左衛門をその郷の頭と定めて、杭瀬川を下賜され、この時より杭瀬川に関所を建て川運上(税)を取ったという。
その後も清水は◎釣月寺の寺領であったが、土岐左京大夫成頼の代から◎釣月寺は衰退して断絶するに至った。その後、清水には林七郎右衛門通兼が住んだ。(なお通兼の事は地元民も知らず、林氏は◎十七條(現瑞穂市)に居住したというのが実説であるという)
※この段落、詳しくは◎釣月院へ
そうしたところ、また時が経ち、斎藤道三の時代に至り、その臣・加納悦右衛門寛之という者が、清水の山上に城を築いて居住していた。道三が滅びた後、弘治三年(1557)の春に稲葉伊予守通朝が安八郡◎曽根の城より大軍をもって押し寄せ、一挙に落とした。城将の加納悦右衛門は自害し、その子を武藤右衛門尉といったが稲葉に降参して、のちに父の名である「悦右衛門」へと改名して通朝に仕えた。それ以後、この山上の城は破却され、その城跡は腰切山の上に跡がのこる。
永禄八年(1565、乙丑)三月、稲葉伊予守通朝はこの清水の地に新たに一城を築き、「隠居城」と号して住んだ。居城であった◎曽根には、嫡子・右京亮が住んだ。その後、稲葉伊予守は天正十八年(1590)の秋より郡上郡◎八幡の城に移り、清水へは西尾豊後守の弟修理亮光国が一万石にて居住した。
やがて慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦の折に西尾修理は石田方に与したことにより、罰として清水を召し上げられた。しかしながら兄・豊後守が関東に忠節を尽くし、その武功に免じて弟の刑罪は許され豊後守にお預けとなり、揖斐に入って蟄居した。そうしたわけでこの時から、清水の城は断絶した。今はその名残として堀の跡などが残り、田畑となって、俗にそこを「城の内」とも「城屋敷」ともいう。
慶長五年(1600)の秋より御蔵入領(幕領)となり、林丹波守の支配地となった。この時清水に覚林寺という一宇を建立し、清水の郷は残らず法華宗となった。寛永八年(1631)より、岡田伊勢守の知行所となり、それより後は代々岡田家の領分となった。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より