沓掛村(現瀬戸市定光寺町)にある。臨済宗、京都妙心寺の末寺。当寺は建武三丙子年(1336)に、勅諡覺源禅師が開基した。
禅師の名は處、字は平心。肥前国小味荘千葉氏の子。母は平氏。弘安元年(1278)丁亥に生まれ、應安二年(1369)十二月八十三歳で没す。永和四年(1378)勅して覺源禅師と諡(いみな)す。詳しくは『扶桑僧寶傳』『延寶傳燈録』『本朝高僧傳』をはじめ、『覺源禪師譜略』『伽藍開基記』『地藏感應傳』等に見えるので、こゝでは略傳を記す。
元和八壬戌年(1622)五月二十八日、國祖君(尾張藩初代藩主徳川義直)が御遊猟の折に、境内の山林及び沓掛村のうちを寄附され、その後にもなおこの地に御心を留めなされ、しば〳〵遊覧された。慶安三年(1650)庚寅五月七日國祖君が亡くなると、 御遺命により御霊柩を当山に迎え、住僧偈堂導師を奉り、山頭に納め、廟壇を建て、永く鎭め奉った。やがて瑞龍院君が佛殿・方丈等を修補され、寛文二壬寅年(1662)五月七日、寺領を寄付され、御山内の荘厳は他と異なり、巍々として禅刹となっている。
名古屋の方から北に向かって境内に入る。その入口の道の左の山を聖天山といふ。その山の下の北側に下馬札がある。道の左に霊亀岩がある。そこの谷川に板橋を架ける。通常はひっくり返って、平人が渡る事はなく、その側の小橋をわたる。その橋から東北を目指して六十間(約109m)ほど登ると広場がある。北の方の蓮池の中央に石橋を架かる。その石橋を渡って北に登ると、蒼松老杉が左右に並ぶ。右の方の高い所に、鎭守天神社・八幡社がある。その東の方を星山という。道からは遠い。石壇を天神坂という。ここを登り〳〵て山門に入る。蓮池の石橋より山門まで、坂道九十五間(約127m)という。
佛殿 本尊地蔵菩薩は小野篁作、又脇壇に地藏の小像一千體を安す。堂のうしろに水溜ありて、辨財
天社あり。
方丈・書院 佛殿の東にあり。
山門 佛殿の南にあり。
鐘樓 山門の内、東の方にあり。
國祖君御廟 方丈の東の山の上に建つ。『二品前亞相尾陽侯源敬公墓』とある。陳元贊が書いた。四方は柵を結び、西南の方に檜皮の門があり、獅子御門という。この道の左の方に龍吟水がある。この門を入って少し登ると、御唐門に至る。ここから内の結構は、たいへん厳かである。御廟の側に殉死した人々の墓がある。寺尾土佐守直政・鈴木主殿助重之・志水八郎左衞門正昭・土屋善之丞元高・鈴木太兵衞重春の五人、また寺尾の家来の新武家紋左衞門、鈴木重之の家来の馬場太郎左衞門・井上彌五兵衞、志水の家来の岡田市郎左衞門の四人、都合九基の石碑がならび立つ。
開山塔 仏殿の西北にある。行基作の千手観音を安置し、開山及び中興の像を安置する。
寺宝 開山覚源禅師の肖像一驅。同禅師號一幅。同画像自賛一幅。同法衣二領。同定光寺號一幅。扁額一面。中興本性禅師肖像一驅。同画像自賛一幅。同禅師號一幅。二世要門和尚画像一幅。大覚禅師画像自賛一幅。覚照禅師画像一幅。そのほかも多く省略する。
塔頭 蔭凉院・金溪軒・続芳軒・梅竹軒・龍澤軒・藏竹軒。
当山は極めて高いわけではないが、しかも蔚然た松や柏、林壑の美をなし、四時に在りてその色を変えることはない。自然と君子の凋むに後るゝの節操を表し、その林の気、雨露を含んで、朝暮山間を離れない。霧は不断の香を焼くに似ている。夸條の葰楙たる、常にひかげを漏さず、莓苔地に敷いて、山嵐塵をすゑず。これはまさに無垢の淨土かと思われる。國祖君の尊霊が永久にここに鎭り、御國の栄を千五百の後の万歳に保護なさり、無上の崇敬を八千度の秋に廟食される。山は高くなくとも、仙あれば名ありと、劉禹錫がいったのも、今ここに思い起こされる。
尾陽亞相ヲ悼ミ奉ル 林道著
今茲仲夏七日。是レ何ノ日ゾヤ哉。如何ゾ不淑ナル。二品亞相尾陽君侯不豫日久シ。遂ニ世ニ于武江ノ邸ニ即ク。闔國皆驚キ。悲嘆セ不ル無キ焉。既而靈櫬ヲ于尾州ニ送リ奉ル。僕匏ニ於武江ニ繋リ。奔リ哭スル能ハ不。聊野詩一律ヲ綴リ。其家臣ニ呈シ。以テ餘哀ヲ洩ス。
亞槐美譽搏桑ニ冠タリ。家國恩ヲ懷ヒ永ク忘レ不。武ヲ講ズレバ孫呉節度ヲ持シ。君ニ致セバ堯舜羮墻ニ見ユ。聖殿ヲ經營シテ蘋華動キ。賜シテ儒衣ヲ寄荷葉芳シ。涙梅霖與相共ニ落ツ。江城五月做非凉。
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今年の仲夏(旧暦五月)七日。何の日であろうか。如何ぞ不淑なる。二品(従二位)亞相(大納言)尾陽君侯(徳川義直)長く病気だったが、遂に武江(武蔵国江戸)の邸で逝去された。国中皆驚き、悲嘆しなかった者は無かった。やがて霊棺を尾州に送り奉る。しかし私は武江におり、奔り動哭することは出来ず。かりそめに野の詩を一律綴り、家臣に披露し、余哀を洩らす。
大納言の美譽は扶桑(日本)に冠する。藩は恩を想い永く忘れず。武を修めれば孫呉のような節度(規律)を持ち、君に致せば堯舜(中国の皇帝で儒教の仁政の象徴)を慕う。聖殿を経営して蘋華(供え物)動き、儒衣を賜して寄葉のように芳わしい。涙は梅雨と共に落ち、江戸城の五月は冷え込む。
元々唱和集
寛文壬寅冬日水野應夢山定光寺亞相源敬公寢陵謁拜スル一律 陳元贇
跡を東溟(江戸の東の)ニ寄スル數十春。感公升斗窮鱗ヲ活ス。幾年閟闕膽自ル無ク。今日玄宮拜因ル有リ。驥ハ鹽車ニ困ンデ伯樂ヲ憐ミ。龍ハ神劍ヲ埋テ豐城ヲ辨ズ。白頭一滴知ニ酬ルノ涙。銘徳千秋永ク磷セ不。
跡を東溟(江戸)に寄せて数十回の春。公がわずかな水で困窮を活かす。幾年も宮門に胆(気後れ)なく、今日、玄宮(墓所)を拝む理由が有る。馬は塩車(重労働)に困しみ伯楽(理解者=公)を憐(慕)あわれみ、龍は神剣を埋めて豊城(見出してくれた地=公)を弁解する。白頭の一滴は、知(知遇)に酬いる涙。銘徳(心に刻んだ徳)は千秋(永遠)に永く磷せず。
初テ敬公廟ニ謁ス 神野世猷
往歲身縣宰ト爲ル年。豈期センヤ今日階前ニ拜セントハ。金朱暲曄秋雲映ジ。松檜崢嶸旭氣鮮ナリ。徳ヲ仰グ山峯皆列嶽。恩ニ比スル潭水涓泉似タリ。少時伏謁スレバ私感多シ。限無キ清風オ自絃ヲ奏ス。
昔、私が県宰となった年。どうして予想できただろうか、今日階前に拝ませないとは。金朱(高官の服装)暲曄(輝き)秋雲に映り。松檜は高く聳え朝の光は鮮やかである。徳を仰ぐ山峯はみな列嶽で、恩に比する満水は絹の泉に似る。しばらく伏謁すれば感じるところが多い。限り無い清風がお自絃を奏す。
天正3年(1575)10月8日に、織田信長は尾張国の道普請で橋材を水野定光寺より伐採することを許可した。前年天正4年11月25日に、信長は尾張国中の道を年に3回修築し、橋を地元に修繕させること、用水導水路の維持を厳重に行わせることを命じている。架橋の資材は現地調達を原則としていたが、ない村は水野定光寺より伐採することをよしとした。(酒井文書)
『武功夜話』(前野家)によれば、尾張国中の道普請が大方完成したのは、天正4年春という。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)216、217頁