「尾張國分寺舊址」と刻んだ石柱が建つ。国府宮から、西方約4キロの三宅川左岸の自然堤防上にある。昭和三六年(1961)に遺跡の金堂跡と坊跡が発掘調査された。

天平一三年(741)、聖武天皇の命により国分寺の建立が勧められた。尾張国分寺の初見は『続日本記』天平勝宝元年(749)五月戊寅条にあり、山田郡の人生江臣安久多が尾張国分寺に知識物を献じ外従五位下を授けられたことが記されている。その後、神護景雲三年には木曽川氾濫の危険が中央に報告され、宝亀六年(775)八月癸未条には大洪水によって堂塔が破損したことが記されている。

発掘調査の結果、金堂跡はわずかな高まりを残すのみで、地表には明確な痕跡は認められなかった。ただし、基壇の築土と基壇周囲の瓦積みの一部が確認された。基壇は地山をやや掘り下げて水平に整地した後、粘土に玉石を混ぜて土壇を築いていた。上部は削り取られており礎石の痕跡はないが、東西25m・南北21.6mのほぼ正方形の平面を持っていた。周囲の瓦積みは、のちに地表が高まった時期に修理のため積まれたものと考えられる。基壇西側には築土が延長し、回廊が取付いていた可能性もあるが、詳細は不明である。

基壇のまわりからは灰を含んだ瓦が一層だけ堆積しており、寺院は一度の火災で姿を失ったとみられる。その後、平安時代後期の四弁の軒丸瓦がわずかに出土していることから、焼失後に小さな堂が建てられたのかもしれない。

坊跡は金堂跡の南東約40mにあり、幅14.7mの基壇が残っている。中央付近では心礎が南に傾いた状態で見つかり、そこには出枘の痕跡が残されていた。さらに基壇の内部から三つの礎石が出土したが、表面は平らに整えられているものの、それ以外に加工の跡はなかった。

塔の基壇は、砂質土を少し固めただけで、小さな瓦片が混じっていた。これにより、創建時のものではなく、瓦が散乱した後に築かれたとみられる。金堂の基壇に瓦積みの補修が施されたのと同じ頃、塔の基壇にも瓦積みを施工したようだ。

『日本紀略』には、元慶八年(884)に火災があり、愛知郡の定額願興寺を国分寺としたという。定額寺は国司の管轄下の寺院である。願興寺は、現名古屋市中区正木町の元興寺と思われる。

当地の椎ノ木の寺院遺跡の塔基壇は創建時のものではなく、後世に築かれた可能性が高い。鎌倉の『円覚寺文書』や一宮の『妙興寺文書』には、この周辺に「国分領」「国分寺地」という地名が記されており、国分寺転用後の痕跡と考えられる。

『本朝文粋』の寛弘六年(1004)の大江匡衡の奉状には、尾張権守在任中に修造した寺社十二か所の中に国分尼寺は含まれるが、国分寺は記されていない。これにより、国分寺は既に廃滅し、十世紀後半には国分尼寺が国分寺に転用されていたと推測される(『新修 稲沢市史 本文編上』)。三宅川を挟んで残る「法花寺」の地名は国分尼寺の所在地とされるが、確証はない。

新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 本文編上』(稲沢市長住田隆、平成二年)98-102頁

稲沢市矢合町宮西
種別