白山村にある。天台宗、野田密蔵院の末寺。山号は勝嶽山。
むかし伊勢国阿漕浦に益直という商人がいたが、諸国に船で回り物を商い、養老七癸亥年(723)四月、当国下津の湊に船に泊めていたが、早朝船の窓から東の方を望み見れば、内津山の麓の辺りに怪しき雲が立ち、五色の光を空にたな引いていた。益直は奇異の思いをして、その所を尋ねて光を追ってこの地に来たのは、田の中の松島で、十一面観世音の霊像を得た。益直は喜び、かの像を船に乗せて、本国伊勢に帰ったが、湊が近くなって、その船は岸に着かず。尊像を移して陸に上げようとすると、重くなり動かせず。益直は呆れて、一旦自分は小船に移り家に帰った。その夜の夢に黄衣の僧が来て、手に蓮華を持ち、盆直に告げる、「我が本国の松島は、三世諸仏が広く衆生を斎度する仏地である、汝が我を他所に遷そうとするが、すみやかに本国に帰すべし」というのを見て、夢覚める。さて尾張に返してもとの松島の辺りに三間四面の堂を営み、かの像を安置すれば、遠近の道俗、尊信し霊験たいへん著しい。
はじめ縁福寺と名付けたが、神亀五年(728)異僧来て、『圓福寺』と大文字の扁額を書いて、門に掲げたので、今の文字に改めたという。また盆直は行基菩薩を請じて、供養の導師としたともいい伝える。元より霊仏であるので、後世には当国三十三観音のうちに列す。
寺宝に太鼓があり、たいへん大きく周りは九尺(約2.7m)ほど、里老の伝に、曾呂利宗八の陣太鼓であるという。
側に白山社があって、古社であるが、村名もこの社より起こる。伝承に養老二戌年(718)鎭座というが、社伝が失われている。惜しむべし。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)