弘仁九年(818)、全国に疫病が流行したため、朝廷は全国の神社に疫病快癒祈願を祈禱するよう勅命が下された。同年九月、田口定安氏は神永洞天王山に社を建て、阿夫志奈神社として熱心に参籠した。その後、貞観元年(859)に御神託により厚朴の森へ、三九年後の寛平九年(897)には現在の芳賀に社を遷した。延長元年(927)には式台社に、明治六年(1873)には九ヶ村郷社に列した。

社殿の構えは大きく、また霊験あらたかであることから、門前市が立つ頃もあった。

例祭 四月十四日。明治初年まで花火を打ち上げていた。花火で森に近い民家で火災が起きたため廃止された。

合祀 十二社。
山形神社(大己貴命)
唐武神社(日本武尊)
大須禰神社(大須禰比売命)
和田住神社(鵜茅草葺不合尊)
八幡神社(応神天皇)
金比羅神社(大己貴命)
愛宕神社(迦具土神)
乙姫神社(八坂姫命)
東照宮(徳川家康)
神明神社(天照大神)
稲荷神社(保食神)

紋章 木瓜(もっこう)。木瓜は「窼紋」からきていて、窼は鳥の巣のことである。平安時代に広く用いられ、清和源氏、藤原氏の一族などが家紋として用いた。京都の八坂神社や織田家でも家紋として用いられている。

壇尻

明治十四年に再建され、現在まで受け継がれている。山車に比べて壇尻は田舎に多く、百姓達が集まって素朴な車を曳いたのが始まりといわれている。山車が人形を綱で操って奉納するのに対して、壇尻は舞台の面積が広く実際の人が舞楽を奉納するのが特徴である。

平成三年(1991)に、氏子の合作で新しい壇尻が作られた。

長寿丸の墓

境内に長寿丸の墓といわれる場所がある。『加茂郡史』に阿夫志奈神社境内に稚児塚ありと記されているが、『肥田郡記』には芳賀野の二階堂山城の守の屋敷跡に葬ったとある。

天正十年(1582)六月、金山城主・森長可が福島城に攻め寄せた。福島城主・玄蕃允は戦況不利を悟り、奥方を連れて天子の渡しへと脱出した。一方、馬串山城主の長寿丸は福島城の異変を聞いて城に駆けつけたが、父・玄蕃允は既に落ち延びた後だった。長寿丸は森勢を斬り捨て後を追うも、鉄砲で左脇腹を撃たれ、天子の渡しで追いついたところで落馬し絶命した。両親は深く嘆きながら遺体を舟に運び、二階堂山城守行政の居住跡に葬った。
奥方は悲しみと疲労で倒れたが、天王様のお手水で息を吹き返した。その後、上川辺で匿われている間に乙姫神社を再建し、深く信仰した。(肥田軍記)

参考:『阿夫志奈神社の歴史』(阿夫志奈神社編集委員会、平成26年)

加茂郡川辺町上川辺1190番地1
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