墨俣は、尾張国と美濃国の境を成す木曽川が長良川と合流する地点に位置し、古来より交通の要所として知られていた。
宇治捨遺物語には「大海人皇子が墨俣の渡しで難を免れた」と記されており、壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が吉野から鈴鹿を経て不破関(関ヶ原)へ向かう途中、墨俣の不破神社の神が娘に化身して助けられたという。さらに、承和2年(835)の太政官符には「墨俣川の渡船が四艘に増やされ、左右に布施屋が二か所設立された」と記されてある。
この辺りに船橋を架けるときは、尾州領から川半分の橋船を出し、加納領から他の半分を出す。加納の人夫が架橋し、橋番も加納が置いた。
『覽富士記』(永享四年-1432- 連歌師堯孝の義敢将軍随行)
すのまた川は興味がつきない所のようである。川面はたいへん広く、海のようなこゝちがする。舟橋が遥かに続き、行く人や馬は休む暇もない。 ある所では、木々の下に家々が立ち並んでいて、 庭の趣きを感じられ、また御舟に寄り添うように飾りを浮かべていたりもする。片側には鵜飼船なども見える。ある年、北山殿に行幸のとき、御池に鵜船がおろされ、かつら人(能の人か?)を召して趣きのある光景が夢のように思い出される。ここの景色はそれより他に、見たことのないほどの様子であった。
鳥つ鳥 つがふうきすのまだみねど しらぬ手繩に 心ひく也
享保十四年(1729)、象が中山道から美濃路、東海道を経由して江戸へ送られた。墨俣の渡しでは、船乗場に土俵を置き、板と砂を敷いて船と同じ高さにし、船橋は厚さ二寸五分の板を針で打ちつけ、船の両岸には莚(むしろ)を下げて、象が水を見ないようにして、無事渡河した。
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)