飛騨街道から郡上八幡に至る道の入口にある。城山は標高350mで尾根は搦手、東西の川は濠の役割を果たしている。城の大手口は水無神社の北側の洞で、尾根伝いに登る。
天正十一年(1583)三月岐阜城主織田信孝は柴田勝家と通じ、秀吉に反旗を翻した。郡上八幡城主・遠藤慶隆も信孝にくみしたため、天正十五年(1587)秀吉は遠藤氏を二万七千石から一万四千石に減封し、加茂郡白川の小原・犬地城に移した。遠藤氏の去った八幡城へは揖斐城主稲葉右京亮貞通が移封し、郡上郡並びに武儀郡津保谷を併せて四万石が与えられた。貞通は八幡城を整備し、領国防備の拠点として城砦を築いた。特に、加茂郡へ移された遠藤氏の動向を警戒した。
津保川筋には、大洞城(武儀町)と神野城(関市)があり、大洞城は飛騨街道から郡上八幡に至る道の入口に位置し、八幡城に最も近かったため、一柳城を改修して嫡子・稲葉典通を配置した。飛騨川筋には下麻生城(川辺町)に稲葉彦六を、木曽川筋には和和城(八百津町)に貞通の弟・稲葉方通をそれぞれ配置した。
本丸・二の丸・三の丸等の主郭部では石塁をもって曲輪普請が行われていたが、明治から大正にかけて津保川の護岸工事、道路・架橋工事、神社整備の際に地元村民の手でこれらの石塁が崩され、山から落として使用されたということである(地元古老の証言)。現在は、三の丸大堀切側・二の丸櫓台・本丸大手門周辺に石塁が残る一方で、本丸南側には崩れた石材が多数散乱しているのみである。
参考:
『美濃大洞城誌』(林春城)
『武儀町史』(武儀町教育委員会、平成4年)71-76頁