往古、暦応年中(1338-1342)、この清水は土岐弾正少弼頼遠の領地であった。そうしたところ同五年(1342)、頼遠は京都において持明院の御幸に行き会い、不慮の狼藉をふるまった罪によって誅殺されたため、その弟である律師周斎坊が続いて領した。
さて、周斎坊は京都天龍寺の開山・夢窓国師の弟子であった。この清水の山の麓に一宇の寺を建立して「清水山釣月寺」と号して、その師・国師の隠居所として進上し、夢窓国師が来住した。そうして周斎坊の寄付により、清水は釣月寺の寺領となった。さてまた、貞和年中(1345-1350)に東美濃土岐郡高田の郷に一寺を建立して「定林寺」と号して、夢窓国師はこの寺に移り、その跡の釣月寺へは国師の弟子・嬾椿和尚が入った。
その頃、恐れ多くも釣月寺は天子(天皇)の勅願所となっていた。伯耆の住人・山名伊豆守時氏が、心を翻して南朝に与し、吉良・石堂・和田・楠・赤松らをはじめとする伯耆・出雲・隠岐・因幡・丹後・但馬の軍兵が一丸となって京都へ攻め入り、八条・九条の民家に火を放ち、合図を示して乱入した。その時、山名時氏はこれと示し合わせて嵯峨・仁和寺・西七条に火を放ち、京中に攻め入って戦いを挑んだ。この時、北朝方においては、足利宰相義詮朝臣はじめ土岐・細川・佐々木・長山らが馳せ向かって防戦したものの、殊に無勢であったため一戦にして利を失い、京都にとどまり難く、義詮朝臣は主上(北朝方の帝)を守護して東坂本へ落ちたが、ここもとどまり難く、さらに落ちていった。
時に文和二年(1353、巳)の三月十三日、義詮朝臣は帝の御車を守護して、美濃国不破郡垂井の宿場まで落ち延びていった。行幸にお供した公卿には、二条前関白左大臣・三条大納言実継・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠秀・松殿大納言忠嗣・大炊御門中納言家俊・四条中納言隆持・菊亭中納言公道・花山院中納言兼定・左少弁俊冬・右少弁経方・左中将時光・勘解由次官行知・梶井二品親王ら以下、武士には義詮卿を大将として、細川相模守清氏・尾張民部少輔・弟の左京権大夫・同左近将監・土岐大膳大夫頼康・同長山遠江守光明・今川駿河守頼貞・同兵部大輔助時・同左近蔵人・熊谷備中守直鎮・佐々木三郎左衛門秀綱・山内五郎左衛門信詮ら以下。さて垂井の宿に着き、長者の家を借りて皇居となし、官軍の面々は辺りの民家に宿をとって警固にあたった。
その後、また垂井を発ち、池田郡に向かい瑞岩寺を皇居とした。その翌年の春に尊氏将軍が上洛される時まで瑞岩寺を皇居を定めていた間に、美濃国中の諸寺諸社へ勅願を立てるため、公卿らを勅使として各所の寺院へ遣わした。この折、大野郡清水の釣月寺が土岐大膳大夫頼康の祈願所であったことから勅使を立てることとなり、大炊御門中納言家信に命じて赴かせた。
そうして勅使が釣月寺へ向かう道中、にわかに雨が降り出したため、傍らにあった梅檀の木の下で休みしばらく晴れ間を見合わせていた。そこへ、その家の主人の杉原与左衛門という者が表へ出てきて気の毒に思い、勅使を家に招き入れて、酒をすすめ、肴として杭瀬川の鮎を焼いて献じたところ、勅使もそれに珍しく思い深く喜んで、即席で一首の和歌を詠んで杉原に与えたという。
尋ね來て あふちが許を宿るなり 若葉の花の ゆかりとやいふ
また別の書に見えるには、
あづけてぞ 主がもとをば出づるなり 若紫の はなのゆかりに
家信
杉原與左衞門へ
これは大炊御門中納言家信卿とみられる。それから与左衛門は釣月寺へ案内して、さらに池田郡瑞岩寺の皇居の所までお供した。やがて帝もお聞きになって感じ入れられ、これより与左衛門をその郷の頭と定めて、杭瀬川を賜わったのである。すなわちその綸旨にいうには、
去廿八日、敕使家信釣月登山之處、令案内之條御感不斜。爲忠賞株瀨川賜。天氣仍如件。
文和二酉七月七日
左中辨時光 申
大膳大夫頼康 取次
清水郷頭方へ
この時より、杭瀬川に関所を建て川運上(税)を取ったという。その後も清水は釣月寺の寺領であったが、土岐左京大夫成頼の代から釣月寺は衰退して断絶するに至った。けれども、わずかに目印ばかりの庵室が残って、今も長良村の岸に釣月庵というものがある。
さてまた、かの杉原の綸旨というのは、与左衛門の子孫に伝わり与三右衛門という者が所持していた。しかし、思いがけず与三右衛門が乱心となり、常に方々を出歩いていたが、それでも例の綸旨を手放さず着ている蓑の襟に括り付けて、人にも見せず持ち歩いていた。
ある時、清水の隣の郷科村の三右衛門という者の家に行き、蓑を着たまま釜の下に火を焚いてあたっていたところ、その火が蓑に燃え移り、その身も綸旨も焼かれてしまったのである。その写しは、清水村の江崎七郎兵衛や志那三右衛門らのもとにあるといわれる。
その後の清水については◎清水城跡へ。
参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より