萱津の原

萱津は上・中・下の三郷あり、頗る広い。

鎌倉幕府の記録である『東鑑』に以下のようにある。
建久六年(1195)六月二十九日、壬午。尾張の国の萱津の宿に到着された。当国の守護人、野三刑部丞成綱が雑事を執り行う。
嘉禎四年(1238)二月十日、丙戌。晴れ。萱津に宿をとられる。亥の剋(午後十時頃)に将軍家が突然、体調を崩された。一時的な発作か。諸人、驚き騒ぐ。医師の時長が医術を施したところ、暫くして回復された。そこで御剣を賜う。京兆が御馬を引き出させた云々。
十一日、丁亥。晴れ。今日は萱津の宿に逗留された。昨夜の体調の余韻が残っていたためである。その後、両河の浮橋を修繕された云々。

『貞應海道記』に、

幽月景あらはれて、旅店に人しづまりぬれば、草の枕をしめて、萱津の宿にとまりぬ

と見え、『名所方角抄』に、

菅津の原、下津より一里ばかり南なり。俗にかいづの宿といふなり

と見えて、古駅(街道の宿駅)である。

むかし、京から東路に下る海道は、墨俣川および玉井・黒田・一ノ宮・下津・資津を経て、古渡・熱田・鳴海より二村山の麓を過ぎて、三河の八橋へ出たのである。

『尾張八景』
萱津ノ里ノ夜雨 大德寺天倫和尚

蕭條村雨新愁滴ル。連屋眠ラ不夜正ニナガシ脩。世上繡衾香帳ノ客。終ニ桂玉ノ心頭ニ掛ル無シ。

『名寄』

冬がれの 野べの萱津は焼けにけり 行きかふ人の つまやこもれる
長明 冬の枯れ野原の広がる萱津は焼けてしまった。行き交う人の....

『新續古今集』(文安六年 [1449年])

尾張の国に京から下ってきた男で、親しく語らっていた者がいたが、明日上ろうとしていた。死ぬばかりに思われ、いくべき心地がしないと言ったので

しぬばかり 誠になげく道ならば 命とゝもに のびよとぞおもふ
傀儡あこ 死ぬようだと嘆く道であるならば、命とともに行くのを伸ばせよと思う

『藻鹽草』に、「萱津の原・てくゞつの、是も在所なり」とあり、これはかや津の宿の傀儡なるべし。

『尾張八景』
萱津夜雨

雨の夜の 軒の雫のおとづれて 萱津の里は いとゞさびしき
紹盆 雨の夜、軒の雫が落ちて、萱津の里はたいへん寂しい

『名所今歌集』

ふるさとを おもふ心のつがねをも なみだみだるゝ かやづのゝ原
猛彦 古里を想う心が積み重なり涙が乱れるよ、萱津の野原を歩きながら。
東路や 萱津の原をわくるにも 先みちのくの 眞野の面かげ
春蔭 東国へ向かう路で、萱津の原を分け進むにも、心に浮かぶのはこの先の陸奥の真野の眞野の情景である

『枇杷園句集』

五月雨が やめば屋根堀る からすかな
士朗
五月
泪はやし 萱津の里の むら尾花
騏六 はやくも涙が出る、萱津の里の群れるススキを見て
白鷺や いづれ千年の 松のかげ
徐英 シラサギがいる、どれも千年を経てきたような松の木陰に

参考
『尾張名所圖會 前編 巻七』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)