内田から木曽川を渡り、美濃國各務郡諸村へゆく船渡である。川向こうは鵜沼の城山で、岩壁がそそり立ち、絶景の地である。『承久記』に見える尾張川九瀬の渡の一つで、宇留馬の渡しがこれである。
鵜沼川の事は『續日本紀』、 中島郡萩原川の條にみえる。最低限の現代語訳を加えています。
そもそも犬山という名は、遊猟から起こった名であって、鹿狩りや鷹狩り等で深い山や広い野に入る時は、必ず猟犬を連れて鳥獣を追い出させて、これを射ることを必要としたため、山野で狩猟することを犬山と名付けたと『舊本今昔物語』はいう。今、城下の町並は広いといっても、昔の犬山と呼ぶ地は東南に万里にわたり、甚だ広いことは比べようもなく、およそ継鹿尾や栗栖の山々、また楽田村に続く嘉都(今は勝部とよぶ)の地、羽黒村、今枝村(近世に今井と書き改めた)等の地を犬山とも犬山庄とも呼んだ事が中昔の書籍などにしば〳〵見える。それらの地は豊かで鳥獣が棲み易く、猪や鹿、兎、雉子(きじ)等がたいへん多いため、古来より地頭の武家及び郷士等は常に遊猟を行って武業に励んだという。さてその遊猟は、犬山の業が転じて地名ともなったのはいつ頃の事だろうか今は知りがたいが、五穀や菜蔬・魚鼈等が不足することがあっても、このように禽獣にさえ満ち足りていれば、誠に豊饒で比類ない素晴らしい国と、世間から賞賛されている。
稲置村内田と鵜沼村南丁を結ぶ。川幅一五〇間。あづまの方へまかりけるにうるまといふ所にて
あつま路にこゝをうるまといふことは行きかふ人のあはれなりけり 源重之
東路のうるまの清水名をかへてしらしな旅にたつの市人 行平
明島稻葉の山の峯にねて明はうるまの市にたつらん 稻葉宮神主
返し おもはすもうるまの市にたつ名をはいなはにかへるつとにせんとは 塩谷氏
明治一五年の渡し賃は、一人で六厘、人力車一台で四厘、馬車荷車一台・牛・馬一頭、かご長持一荷で六厘。両掛一荷分持で三厘。
織田信長の東濃侵攻の際、鵜沼船橋がつくられた(場所は不明)。『武功夜話』(前野家文書)によれば加賀江口の備えを担当した飯尾近江守信宗が、鵜沼船橋を作るため木曽川沿い諸浦々から船を残らず調達した。すなわち、大河筋船頭衆惣領草井長兵衛が、河田浦(川島町)・松倉・小越(起)あたりからかき集めた川船60余艘で、松倉瀬より出帆して伊木清兵衛忠次を攻撃しようとしたという。(『尾西市史』)
小牧長久手の戦いで、羽柴方は内田渡の船頭8人に船頭給としての土地を安堵した。なお小牧長久手の戦いでは天正12年(1584)3月に池田元助(恒興の長男)が10艘の船で渡河し犬山城に忍び込んだとされる。犬山城攻略後には秀吉は池田恒興に犬山渡に船が用意出来次第、金山(兼山)ー犬山間を上下する船を集めるよう指示した。金山城主森長可にも船を用意するよう命じた。
文化12年、内田村から内田の渡に常夜灯建立のため、瑞泉寺の敷地供用願いが出され、瑞泉寺は「灯火仕末ハ村中ヨリ取計候而相方納得」として、奉行所から許可が下り、瑞泉寺表門前の道北端、木曽川に面した渡し口に常夜灯が建てられた。
木曽川を下ってきた筏は犬山で一旦停められ、川番所の検査を受ける。ここで筏は一乗から二乗に組み換えられ、船頭を交代して円城寺へ向かった。川番所は神戸氏が預かり半官半民の体制で取り締まった。
犬山城の上流には内田渡しが、城下の鵜飼町からは鵜飼屋渡しがあった。内田渡しは尾張藩が船頭の給料と渡船を保証する官設の渡船場で、鵜飼屋渡しは、筏を支配する神戸氏が筏乗りの便宜のため設けたものだが、一般の人々も利用した。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)214、215頁
千田英元『木曽川の水と尾張地域』(1984年)286頁
『くさの井史』