『延喜式』で桑名神社二座とあり、方俗の三崎大明神と、中臣神社(春日大明神)を併祀している。
三崎大明神の祭神は、桑名首族の遠祖の天津彦根命(天照大神の第三子)と、その子の天久々斯比之命(天櫛日命)の二柱である。天久々斯比之命が祖神で、後に天津彦根命も奉祀した。この神裔の宗家は代々この地を主宰し、大化の改新時は郡司として当郡を領し、鎌倉時代に三崎の地侍を担った。慶長以降の桑名の町年寄はその名残である。産土神として海上交通の安全の守り神で、市場を繫栄させる霊験を持っていた。
中世、三崎大明神を中心とする三崎城下の地侍は、後に三十六地侍と称し、実質の自治権を保持している豪商グループであった。朝廷、伊勢神宮、石山本願寺等への年貢米の海運や委託販売を取扱った。十楽市が栄えた自由経済時代、領主や隣境土豪等の誅求に対して抵抗した。織田信長の統一政策では、自由都市は妨げになり、堺や桑名は臣従を強いられ、長島攻略に利用された。その結果、三十六人衆は三家に減少し、北勢の諸土豪も悉く信長に攻略された。
中臣神社は、祭神が伊勢国造の遠祖天日別命。神武天皇創業の功臣であり、延喜式内社に連なる。
もとは西へ二十町余隔てる山上に鎮座していたが、正応二年(1289)に現在地に遷座した。7年後の永仁六年に春日神四柱を合祀し、春日大明神と称した。本来三崎大明神が中心だったが、藤原氏の繁栄でその祖神春日神の信仰がさかんになり、今では「春日さん」ともよばれている。
古くから朝廷、幕府、公家、武家等から崇拝され、徳川幕府も神領を寄進し、造営なども桑名城主の管理であった。昭和二十年に戦禍で焼失し、二十九年改建した。
前期桑名祭(一名比与利祭)、後期桑名祭(一名御車祭)、石取神事があり、有名である。
中世に入り楽市が始まり、天文十八年から天正二年頃まで「十楽の津」と呼ばれた(『日吉神社文書巻九永禄六年九月二十六日条』)。楽市の文献初出は、天文十八年の近江佐々木氏の城下石寺であり、桑名も早くから行われたことになる。伊勢では桑名の他に、松阪城主蒲生氏郷が岳父信長の遺志を承けて松阪城下に実施した。
桑名の市は、春日大社の南北に扇状で拡がった。南北市場は事あるごとに対峙したため、市の平和を願い、また市の祭神(座方市神社-北魚町)を祀り、九月二十日の市の終わりを祭日と定めている。
近藤杢、平岡潤『桑名市史 本編』(桑名市教育委員会、昭和34年発行・昭和62年三版)47-49、88、89頁