小櫻町本町の西へ入る南側にある。織田備後守信秀は常に天満宮を信仰し、ある時京都北野へ參詣した際、一夜の夢に菅神が枕上に立ち、「我はこの梅松院にありて年久し。今汝が住む国に迎えよ、諸民の安全を守らん」と告げなさったので、急ぎ梅松院に赴きその旨を語ると、梅松院も前夜に見た夢の霊告と符合したため、院の霊宝の御自作の神像を信秀に付与した。これを天文九年(1540)にここへ移し、社を創建して安置し、萬松寺の鎭守とした。

慶長御遷府の時(1615)、萬松寺は現在の所へ移されたが、御鬮(みくじ)の神慮に任せてこの社は残った。入道前菅大納言にかかる縁起があるが、この文と大同小異である。神木に桜の大樹があった為、「桜天滿宮」と称す。別当櫻花山霊兵院は曹洞宗で、萬松寺の末刹、開山は清庵宗仙首座である。なおその桜の樹は、萬治三年(1660)正月の大火で焼失し、今はその名のみ残っている。

  • 本社 菅神御自作の神像。
  • 藥師堂 本尊智證大師の作。
  • 末社 數祠あり。
  • 拜殿
繪馬堂

本社の南にある。二月例祭の際は、府下の寺子屋より奉納された数多の繪(絵)馬を堂内に掛ける。また天保七年(1836)には、諸国で凶作が打ち続き、米価が高騰し、 飢渇に及ぶものは少なくなかった。その頃、府下の志ある町人は、ここに「施行堂」という扁額を掲げて、日々若干の金銭・米穀・或いは衣類等まで、思ひ〳〵に貧賤を恵み、当時の藩主の御仁政より奮発したのであろうか。 同九年(1838)の春までに施行の惣計は凡そ二万両余に及んだという。連年の凶作に、このような御仁恵に及んだことは、誠にありがたく畏れ多いことと覚える。

鐘楼

萬治四年(1661)三月より、官命を奉じて、昼夜十二時に鐘を突いて町中に告げ知らせた為、「時の鐘」と称した。古鐘の銘は小出永菴の作だが、寶暦十三年(1763)に焼失し、今の鐘の銘は須賀安貞の作である。

神寶

方丈仏間に安置された十一面観音は、唐仏の銅像である。また菅公が十一歳の時に書きなさった『梵網經』、南化和尚自画讃の渡唐天神の像・康安元年(1361)に書かれた『天神縁起』一巻、その他古書画・古仏像等多い。

例祭

二月二十五日、神前に大般若を転読し、繪馬堂に神輿を飾る。この日、府下の寺子供等は我劣らじと大文字を書いて、境内に隙間もないほど張る。その中の甚しいものに至っては、あれほど高い鐘楼から地に及ぶほど紙を継ぎ合せて、或いは三字、或いは五字など書いて、諸人の目を驚かせる。

また祭日前後三日の間、府内及び遠近の村々より出て、本町通の数町の内両側に植木を商う賑合い、盆鉢に植えた造り木・接木は更なり。大樹・高木をも厭わず、車で曳来て、立ち並べた有様、さながら山林に入るが如し。

田中道麿(みちまろ)居所碑

当寺の庭中にある。道麿は俗に田中庄兵衞と称し、のち道全と号した。和学に長じて『萬葉集』等の古書に通達する。美濃国多藝郡榛木村の人だったが、ここに移住し、天明四年(1784)十月四日に死去した。著述『撰集萬葉抄』『萬葉名所歌抄』『萬葉東語栞』『萬葉問答書』『手向草』等ある。

また萬葉以下の古書のうち、解しがたき語言を発明・自得し、或いは疑わしいものを本居宣長へ尋ね、問い答させたものを、『疑問』と題して数巻あり。この翁、『宇津保物語』の古写本を所持しているが、延寶(1673-1681)の刊本とは甚だ異なり、世に重宝である。この碑面には、本居宣長の歌を彫り付けてある。『鈴屋集』に

たなかの道まろみまかりて、尾張のなごやの靈岳院といふ寺のうちに、年ごろ住みける跡に石ぶみたてむとするに、ゑりつくべき歌かのをしへ子どものこひけるに、よみてつかはしける
聞きて來て見む人しぬべはりの木の田中のをぢが家どころこれ
はしけやしみぬの國人はりのきのをぢがかたみの榛の木あせを
此老翁は美濃國多藝郡の榛木村の人にて、やがてはりの木のをぢとなむなのりける。
さてなむ此あとのしるしにも、はりの木をうゑたりける

と見えたり。櫻花菅神廟〔撫塵集〕神野子容

澹沱タリ春半日。滿市花ヲ賣ル聲。共ニ牲錢ヲ歛ノテ去ル。醉遊太平ヲ唱フ。

二月二十五日奉納に

曠野集

しん〳〵と梅散りかゝる庭火かな 荷兮
鶯も水あびて來よ神の梅 亀洞
何とやらをがめば寒し梅の花 越人
上下のさはらぬやうに神の梅 昌碧

参考:『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市中区錦2丁目4番6号
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