初めは土田と合驛で勤めていた。合驛とは、共同で宿駅の任務を務めることで、土田驛は後に廃止された。
驛人馬は二十五人、二十五匹。川渡しの船が破損した時は、尾州藩の費用で造った。船四艘、船方八人、筏乗りの役人夫十四人が配されていた。筏乗りは、錦織にて筏をかき、犬山まで下した。一乗につき米一斗ずつ扶持され乗り賃は無かった。
賃銭は上り(鵜沼へ二里九町)人夫一人につき四十七文、 馬一匹につき九十四文。
伝馬助郷は寛永以来二十五箇村(1万448石)、助舟高五箇村(3343石余)が附属する。元禄七年(1694)には十七箇村、享保二年(1717)に三十箇村、同八年(1723)小さな変更があり、幕末には1万1507石となった。
濃州今度御檢地之上於加茂郡太田村内三石九斗九升六合太田渡船頭八人之屋敷
如先規々大久保石見守奉之被下置者也
慶長十五庚戌八月廿六日
平岡因幡守 書判
和田河内守 書判
太田船頭中 鈴木左馬助 書判
(:濃州のこの度の検地の上、加茂郡太田村の内の三石九斗九升六合の土地を太田の渡船頭八人の屋敷地として定める。これは大久保石見守(長安)が奉行として定めた従来の規定通り、下し置くものである
太田船頭給の十五石は寛永元年(1624、子)より原田右衛門の證文がある。(『古義』)
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)