尾頭橋筋の北側にあり。浄土宗、京都知恩院の末寺。山号は国豊山。
往昔、道場法師が開基し、南都(奈良)元興寺の宋寺だったが、中世に衰廃した為、寺を牛立村へ移し、東門徒尾頭山願興寺と呼んだ。跡には薬師堂のみ残ったが、享保三年(1718)再興して旧号を戻した。
古渡の出身で、南都元興寺の僧となる。その伝は『日本靈異記』『本朝文粹』『水鏡』に載せられているが、三書ともに文が長く、読むには物憂く、かつ『靈異記』は古雅で、文義が解し難いため、今その要点をとり、まとめてこれを記す。
敏達天皇の御宇(572-585)、尾張國愛智郡片蕝里の農夫、田に水を注いでいたところ、雷が鳴り前に落ちたが、(雷神の)形は小さな子のようであった。農夫が鍬(すき)で討とうとすると、雷詫びて、「我を殺す事なかれ、楠の舟(丸木舟)に水を入れ、竹の葉を浮かべて与えよ、その報いによき男子を与えよう」と言った。その言うまま与えたら、雷はその水を得て空へ登っていった。
その後、妻は孕み男子を産んだが、蛇がその子の首を二巻まとって、尾と首が後ろの方に垂れていた。この子は力持ちで、十歳の時に八尺(約2.4m)四方の石を投げて、足跡は地面に三寸(約9cm)ほどめり込んだ。
奈良の元興寺の僧に仕えたが、その頃、寺の鐘樓に鬼があり、 夜毎に鐘を突く人を喰い殺したので、この童子はその怪を退治しようと言い、僧どもは喜んで許可した。その夜、鐘楼で童子は鬼と闘い、髪を掴んで離さず。鬼は負けて、髮を抜かれながら逃げ去った。夜明けて血を追ってありかを探したところ、惡奴の墓で血が止まっていたので、奴の魂が鬼の仕業をしていた事が分かった。その後、その怪は無く、その髮は元興寺の宝物に納められた。
成長して童子は寺にいたが、寺田に水を引こうとしたところ、他の農夫が妨げて水を入れさせ無かった。そこで、十数人で持つべき程の鍬の柄を作って水の口に立てたが、人々は抜いて捨ててしまった。それならばと、五百人で引くほどの大石を取ってきて、他人の田の水の口に置き、水を寺田に引いたので、人々は恐れおののき、その後は妨げないようになった。
こうして寺で剃髪し、「道場法師」と名乗ったのである。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)