一日市場館ともいう。
美濃源氏が「土岐氏」に改め、土岐郡を所領として神戸城に移った。土岐光衡は神戸判官代と号した。光衡は神戸城を居館として、周辺に鶴ヶ城(鶴城)、猿子城(益見)、宇留輪城に山砦を築き、居館の南の中島に光善(興禅)寺を建立し、これを土岐累代の菩提寺とした。清水・小里・日吉・大富などにも館を置いて一族を配した。
光衡は寿永三年(1184)一族を率いて鎌倉の頼朝の幕下となり、建仁元年(1201)頃に大内・梶原氏についで美濃国守護に任ぜられた。
光衡の子の光行が土岐氏の総領を継いだ。若くから後鳥羽院西面の武士となり、従五位下に叙せられ院中警備の上級官となっている。また土岐左衛門尉に任ぜられ、土岐判官と号し鎌倉三代将軍実朝が大将に任ぜられた建保六年(1218)の鶴岳宮拝詣時には当時の武士としては、もっとも名誉な親兵将校隊といえる随兵八人の中に選ばれている。
後鳥羽上皇は木曽義仲入京の寿永二年(1183)に天皇に即位し、平家滅亡、頼朝による鎌倉幕府樹立を経て、頼朝没後の一年前に上皇となり、政権回復を念願していた。荘園における地頭の権限拡大に不満を持っていた。北条氏による執権政治が始まると、討幕・北条氏追討の計画は急速に進められ、承久三年(1221)五月十四日、城南寺の流鏑馬揃いにかこつけて諸国の兵を招集した。幕府はこれに対し、北条泰時を大将として十九万余の兵で西上。朝廷は木曽川でこれをくい止めんと、九瀬の渡に第一線を敷いた。九瀬の渡は、大井戸渡、鵜沼渡、板橋渡(小伊木渡)、池瀬渡(山那渡)、摩免戸渡(前渡)、薭島渡、食渡、洲俣渡のことで、渡河できる浅瀬があった。
土岐光行は朝廷方として、木曽川の板橋・池瀬渡(鵜沼下流)に出陣した。六月五日の夜に合戦が始まり、朝廷方はまず大井戸渡で東山道を西上した甲・信軍五万に敗れ、鵜沼も破れ、翌六日の朝、東海道の十万の幕軍も一斉に渡河した。池瀬渡の土岐光行勢は横から甲・信軍、正面から足利義氏らの東海道軍の総攻撃を受け、摩免戸渡の本隊も破れ退却した。
北条軍は杭瀬川・勢多の京軍についで、十四日には京軍最後の宇治川も破って京都に入った。
美濃の武士は土岐光行(土岐郡)、斉藤親頼(美濃目代)、神地頼経父子(加茂郡)、木田重知・開田重国(岐阜則武)、山田重忠(郡上一族)、小島重茂(岐阜岩滝)、蜂屋頼俊(美濃加茂)以下ほとんどが京方であった。
幕軍に味方したものは、恵那の遠山景朝、郡上の鷲見家保らのほか片切為頼・逸見義重(大桑)、里見義道(安八神戸)、成田光治(池田市橋)、石川光義(岐阜沢田)、遠藤胤行・粟野国光(岐阜粟野)、加野二郎(山県)、饗庭光俊(大野)、池田泰永(池田)らであった。
戦勝した北条氏は、西軍の公卿・武将の多くを捕え斬罪または流された。後鳥羽上皇は隠岐に流され、王政復古の企ては失敗した。西軍の将士の領地は没収され、これに代わって下総の東胤行は郡上に(遠藤・和田・石神・土屋・河合・日置氏ら入郡)、相模の長江秀景は不破郡今須に入り、戦功の里見義直は安八郡平野を、片切為頼は方県郡彦坂を、小田有知は山県郡伊志良、大沢重道は加茂郡大沢などの地頭に補せられて美濃国に入った。
光行に率いられた土岐勢は、敗戦とともに京都へは行かず、郷里の土岐郡に逃げ帰った。幕府の処分は各氏に対して行われたが、光行は妻が幕府方の武将で、東海道軍第五陣の総大将千葉介胤綱の妹であることから、郡内の大半の所領を減ぜられた上で斬罪を免れ、その後は神戸城を出て浅野(現土岐市)に隠棲を命ぜられた。
しかし間もなく許され浅野判官などと号し、隠棲地の浅野を中心に土岐郡内の旧領の一部も復されたようで、乱から七年後の寛喜元年(1229)五月の源三位頼政の五十周忌追善法会が、首塚のある山県郡上野(現関市千疋植野)の蓮華寺で行われ、その参会者の中に山県・浅野・渡辺・平野・世保ら美濃源氏一族とともに土岐判官光行の名も載っている。
参考:『瑞浪市史 歴史編』(瑞浪市、昭和四十九年)245-254頁