地蔵院

山号は南東の◎天祥庵と同じで金寶山。中瀬町の石橋というところにある。真言宗長野村万徳寺の末寺。当山は第九十四代花園天皇の御代、文保元年(1317、巳)、牧権大夫奉忠の室(妻)の冥福のため幡屋村に開基し、全海法印を招いて開山とした。奉忠は鎌倉殿にゆかりがあり、そのため室に「力王子」の称号、ならびに幡屋村の内に寺地を賜った。その当時は寺も広大で、大伽藍の仏場であった。

しかし250年余り経て荒廃し、ほとんど跡形もなくなろうとしていた。時に天正四年(1576、子)、この地へ移して政堯法印を中興の開山とした。

  • 本尊 地蔵尊の坐像。慈覺大師の作。脇壇不動明王は智證大師の作。また弘法大師自作の像がある。
  • 鎮守 白山権現。
寺宝
  • 足利尊氏公像 土佐光信の筆で、小具足をつけて馬に乗った絵。その彩色の美しさ、姿態の古雅な様子は世に類なき絵幅であり、『集古十種』にも載る。
  • 地蔵菩薩画像 足利尊氏公の自画讃(自画像)であり、上に「夢中有感通、今我畫尊容、利濟徧法界、善根無所極」(夢の中で仏様と通じ、今そのお姿を描く。その救いが世界に行き渡り、 善行の報いが無限に続きますように)と四行の讃があり、末尾には「文和三年(1354、午)六月二十一日 仁山書爲大平越前守」とある。寛永年中に僧良政が伊賀鹿伏登玄長房から得たとのことである。
寄進状

文保三年(1319、未)三月十五日、貞和五年(1349、丑)七月十八日、永享八年(1436、辰)七月二十七日、文安四年(1447、卯)六月三十日、宝徳四年(1452、申)正月十二日、文正元年(1466、戌)五月一日、中瀬刑部左衛門尉家親以下十二名による連署の書状に、

幡屋口堀土居之事、西はたんくわの堺より、王井彈正方堺まで、末代地藏院爲御拜領、土居之林堀爲住持御沙汰可被修理者也、□十ケ村衆議加件

幡屋口の堀と土居の件、西は旦過の境から玉井弾正方の境まで、末代まで地蔵院として拝領し、土居の林や堀は住持の取り仕切りにて修理されるべきである。十ヶ村の衆議によって定める

と見える。そこに「旦過」とあるのは今の大福田社のあたりに旧名が残り、「玉の井」というのもその北のあたりと言い伝えられ、幡屋からはほど遠く、昔の地蔵院の敷地の広大さをうかがい知るに十分である。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市熱田区白鳥3丁目8番1号
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