曹洞宗、正法寺の末寺。
南朝の延元三年(1338)、官軍が東国へ下った時のことである。伊勢の大湊で船を揃え、風を待っていた。九月十二日の宵より風が止み雲も収まり海上が静まったので、舟人達は纜(ともづな)を解いて、帆をあげ出航した。兵船は五百艘余り、義良親王及び北畠顕信卿の御船を中央に置いた。遠江の天龍灘を通る頃、暴風が吹き荒れ、逆巻く浪が天を覆い、帆柱を折られる船や、梶を失う船もあった。多くの兵船が伊豆の大島辺りに、吹き寄せられた。親王の御船が覆えりそうなその時、光明赫耀な日輪が船首に現れ、やがて暴風も静まって、伊勢の國の神風の濱(『新葉集』に篠島とある)に漂着した。やがて吉野より日野僧正が勅使としてこの島に遣わされ、親王は吉野に帰還し後醍醐帝の譲位をうけ即位された。これが後村上院である。なお詳しい事は『太平記』に見える。
ここを帝の滞在された跡といい伝えられ古城山と号され、今も帝井(みかどい)とよばれる井戸もある。みなその時のなごりである。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)