上坂城跡

浅井氏と京極氏の間に

上坂村にある。

上坂氏

上坂氏は梶原景高の子・景信を祖とする。景信が落ち延びて当郡上坂に住み、上坂氏と称したことに始まる。その子孫の景家は平兵衛と称し、その子・量重は平二郎と称した。量重ははじめ京極高清に仕え、幼い頃から聡明で、成長すると勇武を謳われ軍功をたて、治部大輔となった。高清の寵愛は日に日に厚く、ある日、高清が景重に「今、江北の諸豪、来服すといえども、六角氏(の)威武(は)日に衰え、わが族もまた日に窮まる。それ我に代わり諸士を指揮し、よろしく国勢を振起すべし」と。景重は自らの力が及ばぬことを鑑み、固く辞退すること再三に及んだ。

今浜城の退隠

しかし高清はこれを強く求め、景重は上平館を築いて高清を移し、自らは上坂城を築いて江北を鎮撫した。また高清の一子を養子に迎え、泰舜と名付け、また土岐氏の子・泰信も引き取って養った。やがて泰舜を上坂に置き、自らは今浜城で老いた。剃髪して泰貞斎と号し、永正十三(1516)年三月没す。享年五十三。

浅井氏の攻略

泰舜が跡を継ぎ治部大輔となった。八月、浅井亮政が兵二百二十を率いて夜、急に上坂を襲う。泰舜と弟の泰信は兵二千を率いて拒み、屈せず。亮政が間道から出てきた奇兵によって城中に火が放れ、泰舜兄弟がこれを防ぐも既に利あらず。高清は怒り、六角氏に援けを乞うて、一挙に浅井を滅ぼそうとしたが、亮政は上坂と今浜の二城を壊し、兵を引いて小谷へ帰った。泰舜は土民を募り、再び今浜に城を築き、土塁を高くし、堀を浚って、なおも亮政に対抗した。永正十四年(1517)、亮政は朝倉氏の兵とともに攻め寄せてきた。泰舜は力尽き城を捨てて、観音寺城へ逃れた。

参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)

長浜市西上坂町471番地
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