桂の郷

尼が物は無底

大野郡揖斐の西に、桂の郷という所がある。ここはむかし、見たこともないような繁華な地であり、絶景の地といわれていた。

桂の郷の長者

この地に代々、桂の長者(豪族)の花の木氏という者が居住していた。この花木氏という者は、その先祖をたずねると、碓井靭負丞貞光の末裔である。貞光は、第三十一代敏達天皇の五代の孫にして、左大臣橘諸兄公の孫の太政大臣清友から六代のちの末裔、河内国交野の住人・交野荒太郎時澄の子で、同国古市郡長野庄碓井の住人・碓井太夫公貞の子である。さて貞光は天延三年(975)の頃、上総の国において源頼光に仕え片時も側を離れず、腹心の股肱の忠臣となって四天王と称された。千忠万功(忠義と功績)を尽くし、生涯の名誉は莫大であった。大守(国司)頼光朝臣は、長保三年(1001、丑)の四月より美濃守となって当国に着任し、寛弘七年(1010、戌)まで十年間、岐阜の城にお住まいになり、任期が満ちて陸奥守となり奥州へ下向された。

頼光の美濃任国の間、四天王の面々はみな主君の命を受け、国政を執行するために国内で荘園を賜り、東西南北の郷々に在住して政事を行った。長老格の家臣・渡辺綱は、恵那郡中津川に居城を構えて東方を守護し、信濃口の政務を司り、平井保昌は墨俣に住んで尾張口の政務を執り、卜部季武は郡上郡小野に住み、坂田公時は多芸郡横曽根に住んだ。そして貞光はこの桂の郷に住んだ。

貞光が当地に居住していた頃、この桂の郷に数代にわたって住んでいた長者に藤内兵衛家景という者があったが、一人の娘を深く寵愛していた。貞光はこの家景の娘を連れてしばらく妾としていたが、程なく子をもうけた。その後、当国での任が終わり、主君の頼光が奥州へ行くことになり、貞光も当地を立ち去ったが、形見としてその子を桂に残していった。そうして祖父の家景がこの子を養って貞光の家名を継がせ、碓井三郎太夫貞致といった。後に苗字を花木と改めた。その貞致の子を花木藤内左衛門家定といい、その子を藤内兵衛家致という。家致は当国の守護・加茂次郎義綱に属して、天仁二年(1109、丑)八月二十八日、江州甲賀山にて自害した。その子を弥太郎宗貞といい、以降子孫代々桂の郷に住んで繁栄した。なお、碓井貞光にはこのほかに実子があったというが、早世して子孫は残らなかった。したがって、この花木氏のほかに貞光の血筋を引く者はいない。あちこちに血縁を偽る者があるというが、信じるところはないという。

千代野禅尼

さて、この桂の郷に「千代河戸」といって、その地より自然と湧き出る清水がある。その由来を尋ねると、足利将軍尊氏公の母(あるいは伯母ともいう)が足利讃岐守へ嫁いで相模鎌倉にいたが、戦乱を逃れて尼となったことにはじまる。相模次郎平時行が再び挙兵して、建武二年(1335)七月十三日に鎌倉を攻め落としたときのことであろう。禅尼は人目を忍び、星月夜に鎌倉山を忍び出ると、当時名僧と聞こえのあった京都天龍寺の開山・夢窓国師を師として諸教を修め、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏の悟りの道を明らかにし、近世に並ぶもののない高僧となった。一説には、加賀の千代野という所に長年住んでおられたため、禅尼の名を「千代野の尼公」と称したという。そのためか、いつとなく「千代野殿」と申し上げるようになったという。

やがて一所にとどまるべきでないとして諸国を遍歴したが、越前の国へ赴きある一流の大守(豪族か)に案内され入られた。(平泉寺という)生来美麗の禅尼であった故か、寺の主僧はすぐに出迎え、遠慮なくその前陰を現し

「坊が物は三尺」

と問うた。尼はさらに臆することもなく、同じく陰部を晒して向き合い、

「尼が物は無底」

と答えたという。主僧は心の中で深く感じ入った。さて問答が終わって住持と対面してより数月滞在された。尼は天性に麗しくその美しい顔は並ぶものがなかった。衆寮の若い坊主らは折に触れては恋慕していたのをうるさく思ったのか、あるとき大法会があった。この尼、衣の帯を解いて裸となり、声を激しく

「大衆のうち、何某(だれそれ)の若僧、我に向かって日頃艶言をのたまへり。心あらば、今ここへ来られよ。相対せん」

かの僧、大いに仰天し顔の面は焼くが如く、脇汗冷たく流れ針座の上にいるかのようで、やっとのことその集まりを退いて、ほうほうの体で逃げ去っていった。

「穢し返せ」

という声がただ耳に残り、足の立ちどころもわきまえず、行方知れずになったという。誠に稀代の活きのよい漢として「女天和尚」とも称されたとか。

大法会が終わると千代尼も旅立ち、東山道にさしかかり当国へ来て、東美濃・関の近く見延という所のあたりの尼寺に身を寄せてしばらく住み、仏に捧げる花を生け、水を汲む行を怠らず行っていた。ある日、水を汲んでいたが、手桶の箍(タガ)が切れたのだろうか、底が抜けむなしく手ぶらで帰ったが、禅尼の胸中にからりと悟るものがあり、詠んだ歌に、

とにかくに 頼みし桶の箍ぬけて 水たまらねば 月も宿らず

悟りの道を得た僧としてその名は近隣に聞こえ高く、その地の名をも千代野と号したという。なお、その寺は今もあり、この寺の尼は、徳の高い長老でなければ入ることが叶わないとか。道徳といい血筋といい、ひろく由緒のあったのだろうか、世の人はことごとく深く尊敬した。

それから西美濃に移り、大野郡の当所、桂の郷に来て居住された。延元三年(1338、戊寅)二月のことという。これは夢窓国師と師弟の縁があったためか、いや土岐氏の本国の故か。桂の郷の長者・花木弥太郎政和という者が禅尼を尊敬し、自らの領園のあたりの山麓に美しい庵室を建てて住まわせた。この花木弥太郎という者は、先の弥太郎宗貞から八代のちの孫で、変わらず桂の郷に住んでいた。さて、この庵室の前にひと筋の小川があったが、甚だ清らかで、夏の日は冷気がするどく、冬の日は水気温かく朝夕には湯気が立ち込めるほどであった。人々はこの川を「千代河戸」と呼んでいたが、尼公はこれを聞いて喜び、

「さてはこの流れの中は、尼領にこそありける」

と言って、戯れに詠んだ歌に

千代に住む 月のかつらの香をとめて 流るゝ水は あまの川かも

なお、一説にこの尼は花木氏の娘であるというが、いたって誤りである。

総じてこの郷は四方がみな高山で険しく、岩が上下にそびえ、雲や霧が重い山に迫り、辺鄙な地で谷の中にあるといえ、ひと繋がりの平地が山として形どり、絶景の地である。星霜を経て、次第に土が肥えて岡が現れ、かの洞(洞は谷のこと)、この洞と様々あって、住むのに適した洞も多くあり、その地形は鎌倉によく似ていると言う人もあるとのことだ。その頃は大きな郷であり、山々のなかの地面は平らで、実に人家千軒といった。とりわけ農民は朝夕の農作業も繁く竈の煙も賑わっていたが、いつの世に人家が次第に流亡したか、年を追って衰退し、その名も消えて失われた。一説には、天文・永禄(1532-1570)の頃には、まだ人家も多く繁栄していたという人もあるとか。

加賀の落ち人

さてまた、その頃、加賀の落ち人に山岸新左衛門蔵人光章という者が、北国にあって南朝に与し、新田義貞・義助兄弟に合流して加賀より越前に打って出て、足利高経らと数度戦い武勇を振るったが、暦応元年(1338)閏七月二日、越前足羽にて大将の義貞が自害したのち、越前を去って美濃へ落ち、土岐頼康に従順した。これより山岸光章は入道して道貞と号し、この桂の郷に来て牛ヶ崎という山の麓にひとつ館を構えてここに隠居した。なお、桂の郷の大伽藍・月桂山康永寺に閑居したともいう。山岸氏がこの地に来て閑居したのは、光章の末子に新五郎という者がおり、花木弥太郎政和に子がなかったため養子としたからで(この養子を花木藤内貞清という)、弥太郎の弟の弥次郎政吉は土岐頼康の老臣で、そうしたゆかりがあったことから、光章はこの地に隠居したとみえる。

千代野尼公の庵の近くに住み、ともに志を称え、懇ろに交わったとか。それ故か、千代野の詠んだ歌は様々あるが、みな牛ヶ崎の山岸の館に留まり、子孫までも伝わったとのことである。千代野尼公の自筆の歌共を、見たままに、ここに書き止める。

かつら山 きしの花の木ならべつゝ さかえて薫る 千代の橘
牛崎の 館も雲井のすゑかけて 住みながら行く 千代の川水
かつらなる 千代の清水の底澄みて 心に月の 影はうつるや
秋の夜の 月も猶こそ澄みまされ 世々に變らぬ 千代が川水
夕日さす かつらの岸は雪見えて しぐれにくるゝ 山岸の里
なを照らせ 代々にかはらぬ桂山 岸に月影 うつりましけり
手弱女の 姿とな見そ色も香も 知る人ぞ知る 千代の後には

こうして千代野は、康安元年(1361、辛丑)十月二日、遷化された。年齢七十八歳。臨終に至るまで優れ、坐禅合掌して入滅し、この千代河戸に五色の花が降ったという。一説に紫雲が棚引いていたともいう。

時移りその事も去って、その舊跡は今は田の跡となり、川の流れもいつしか埋もれて、わずかに残る溜め水ばかり。哀れで儚い世の語り草となった。賤しい山の奥ではあるが、名は留まって千代河戸といい、月は昔の桂の里と変わらず。古き翁の物語、聞いたままに記す。

参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より

揖斐郡揖斐川町上南方1369番地1