名超寺

後鳥羽上皇 密かに

名超村にある。恵光山常喜院と号す。白鳳年中(673-686)に二朱沙門が創立し、その弟子・名超童子が修行した旧跡である。往古は七堂伽藍と四十九院があった。

上皇の潜幸

正治元年(1199)二月四日、後鳥羽上皇は密かに当寺をおいでになり、円光院を行在所とされた時、僧の禅行がここに住んでおり、上皇は密かに北条氏討滅の策を打ち明けられた。折しも、山野にツツジの花が満開であり、上皇の目に留まった。次いで祇園・山王・大原・赤山・賀茂の五社を建立し、名越川でお祓いされた。

まもなく上皇は体調を崩されたため、雲林山東光院に法華塔を建て、山津照神社に行幸して宝剣を納められた。続いて日撫神社へ巡幸された折、郊外に放たれた牛の一頭が死んだが、これを葬った地を「黄牛塚」という。また同社の境内にて相撲をご覧になり、以降、毎年八月十五日に天覧相撲が行われることとなった。さらに新庄や下坂中へ巡幸を進めて山を越え、祇園社に参拝された。下坂では刑部丞基親の宅を行宮とされた。次いで加田村の妙立寺にて梅を一株植えられ、坂田神明社を経て宇賀野村の蓮成寺へ行幸された。

また、上皇は刀鍛冶七十五人を召し、鳥羽上村にて刀剣を鋳させた。そのうち名超村の郷士・片山左近の技がことに優れていたため、彼を播磨権守に任じ、刀剣鍛冶の宗匠として「常喜院」の号を下賜された。鳥羽上村に残る一株の老杉は、その刀を鍛えた旧跡である。また、春日の神が刀剣鋳造をご加護することにちなみ、布施村に春日社が建立された。

承久の乱

承久二年(1220)四月、上皇は再び行幸され、僧・禅行が迎えて再び円光院を行在所とした。上皇は比叡山はじめ諸山の僧徒へ官軍へ協力すべき内勅を下された。禅行は四方へ奔走して義徒を募り、応じる者はたいへん多かったという。禅行は上皇のお姿を写すことを乞い、許されて、そのお姿を彫刻して尊拝した。

やがて鎌倉幕府の役人がその行方を探り始めたため、六月、上皇は京へ還幸された。途中、息長川は水が満ちて橋もなかったため、飯村の民・成宮某が船を出して渡した。これより先、上皇がこの川をお渡りになった時、地元の人に川の名をお尋ねになり、ちょうど七月七日であったため七夕の故事に因んで「◎天の川」とお答えした。これより息長川を天の川と呼ぶようになった。今も、還幸の途中に◎坂田の神明宮から名超の森を振り返って詠まれた歌が残る。また川を渡る船中から千々の松原を眺められたという。

承久三年(1221)、北条氏が大軍を挙げて西上し京を侵攻すると、官軍は敗北を重ね、ついに上皇は配流の身となられた。上皇に仕えていた腰元に浅井郡今庄村の郷士の娘で豊菊という者がいた。暇を得て郷里にいたが、上皇の流罪を聞いて悲しみに耐えかね、身を淵に投げて命を絶った。禅行はこれを聞くと仏事を行い、その塚を築いた。その禅行も、貞応元年(1222)十二月二十三日に没す。

兵火と再興

時代が下り、後村上天皇の正平六年(1351)四月八日、勅願所に定められた。後光厳院より名超寺の権律師円定が権少僧都に任じられ、制禁の札が下付された。応永二十四年(1417)には後小松天皇が「後鳥羽殿」を建立して禅行の刻んだ真像が安置された。下坂七郷の田が寄附され、三月二十六日には名超寺の僧侶へ永宣旨を賜わった。

元亀二年(1571)、織田氏の軍が江北に乱入し、兵火に延焼した所は多かった。浅井氏がこれを護ろうとしたが、織田軍の柴田勝家が山の上に陣を置き、放火して山全体を焼いたため、堂宇や諸院はみな灰燼となった。信長は寺領を没収したが、山林四十八箇所および諸堂の旧跡は残し、後に寺田六反二畝歩を与えた。羽柴秀吉が長浜城にいた頃に、鳥羽殿を再建し棟札に名を記した。万治三年(1660)、行者堂を廃し、その跡に本堂を建てた。後に鳥羽殿も廃され、上皇の尊像は本堂に置かれた。

参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)

長浜市名越町178番地
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