落合の民家九十軒ばかり。これより西に、なお坂あれども、すでに深山のうちを出でて、険難なくして心やすくなる。木曽路を出て、ここに出ずれば、まずわが家に帰り着きたる心地する

『岐蘇路之記』貝原益軒著


公儀の判形制札が立つ。

伝馬

中津川方面へ伝馬の助人馬を出す。大名行列など大通りの時は伝馬頭(伝馬の責任者)を務め、普段は馬頭を担った。初めの賃銭は、上り(中津川へ一里)人夫一人二十八文、本馬一匹五十五文、軽尻一匹三十六文で、下り(信州馬籠ヘ一里五町)は同額であった。(『木曾懐實道中鑑』) のちに、上下共に人夫一人三十二文、本馬一匹六十三文、軽尻一匹四十一文(『徇行記』) となり、幕末に至っては各驛とも平均六倍半の賃銭へとなった。問屋場は二箇所あり、うち一軒は居宅、もう一軒は長屋にて務めており、荷物を一時保管する荷附小屋は無かった。

主要な人物としては、庄屋の塚田彌左衞門と小左衞門、本陣の五左衞門(井口)、年寄の利左衞門、善助、勘兵衞。そのうち、彌左衞門と五左衞門は問屋を兼ねていた。

尾張藩の庇護

当驛は、尾張藩から堤銀(寛永十六年-1639-から)と伝馬銀(元禄八年-1695-から)の納付に免除されており、さらに毎年、御救金三十両(元禄七年-1694-から)、他に金五両(新道成り行程延長の手当)を支給されていた。給米は問屋二人に米九石、年寄四人に高四石、定使二人に米三石(地頭山村氏より宛行)馬指一人に給金三両、定使二人に給金四両(問屋から出す)である。(『徇行記』)

落合の刎橋

落合橋は、刎橋(はねばし:両側から木をせり出して橋を支える)で長さ十七間(約31m)、幅二間三尺(約4.5m)あった(『古義』)。享保(1716-1736)の頃までは本道筋であったが、延享元年(1744)に道替えされ、三ッ屋より新道を開き、七町(約760m)ほど遠くなった。これに伴い刎橋をやめ、今の新道に小橋を四箇所架けられた。

宿の人馬は二十五人、二十五匹。

参考
『恵那郡誌』(恵那郡教育会、大正十五年-1926)319頁

中津川市
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