天正二十年(1592)、肥前名護屋の陣中で岐阜城主・羽柴秀勝が病死し、後の織田秀信(幼名・三法師)は『鏡島湊舟荷物禁制』を出した。そのなかで舟の着岸を鏡島湊に限定し、年貢以外の諸役を免除する特権を与えた。

鏡島湊で陸揚げされた物資は、馬の背にのせて長良川沿いに岐阜町へ運ばれた。「湊街道」あるいは「京街道」とよぶ。

近世に入って加納藩領に組み込まれ、秀信から与えられた文書をもとに舟荷物陸揚独占権と陸送権を主張し、加納藩もその旧来の特権を認めた。中山道が開設されると、加納藩の年貢米の積出しや藩御用の輸送を担う湊として、さらに中山道河渡宿の対岸に位置する渡船場としても発展した。しかし慶安三年(1650)の大洪水と川筋の堤普請によって舟は鏡島湊より上流まで遡れるようになった。

明和七年(1770)の幕府領厚見郡西鏡島村の『差出明細帳』には、ここから御城米が桑名へ川下げされたことが記されてある。また、灰を積んだ船が鏡島湊よい上流に上る際には一艘につき五十文の川役銀を徴収し、さらに岐阜・長良・加納などへ送る物資を鏡島湊以外で陸揚げした場合、その物資と舟を鏡島湊が没収できるといった特権がみられる。

運賃稼ぎをする鵜飼舟が三艘あった。

参考:
『木曽三川流域史』(建設省中部地方建設局、平成4年)689-691頁

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