野田村にある。天台宗、山城國延暦寺の末寺。山号は醫王山。

千日参り

開山の慈妙上人は、常陸國神田荘の住人鹿島氏の子である。出家ののち、伊勢大神宮に詣で、仏法を広める勝地を得んことを祈って千日ほど参籠した。大神はその志を哀れんだのか、霊夢をもって妙な白珠一粒を上人に授け、寺院を営む勝地を教えられた。

時を同じくして、この里の男女数人の夢に、数万匹の猿がそれぞれ炬(松明)を手に天地を照らし、ここに来る様子が見えた。里人は火災のお告げではないかと怪しみ、恐れること限りなかったが、ある僧がこの夢を解き明かし、「猿は山王権現の使者、炬は般若の智火である。必ずや天台の高僧が来て、衆生の迷闇を照らすであろう」と告げた。そこへ慈妙上人が大神宮の示現によってこの村に至ったため、これこそ大徳によるお告げだったと、人々は喜びあった。こうして嘉暦三年(1328、戊辰)、当寺を建立し七堂伽藍を営むと、寺伝及び『三國傳記』『本朝高僧傳』等に見える。

百の末寺

さて、遠近諸国から来て慈妙の法を受ける僧侶は日に日に多くなり、尾張・美濃・三河・遠江・駿河・信濃・飛騨・伊勢・播磨・肥後・出雲等の十一ヶ国に末寺が出来て当寺の指揮を受けるようになった。しかし、中昔の乱世に音信通い難くなり、遠国の末寺は断絶などしたが、尾張・美濃のうちには、当寺の派下に属して末寺となる寺院は今なお百を超えている。

そもそも当寺の伝法を、葉上派あるいは篠木派と称する事は、慈妙上人が京都建仁寺の葉上僧正(榮西國師號) の伝を圓頓房尊弁に受けて、禅密兼学の一派として当寺の開檀を興したためである。栄西ははじめ比叡山にあって、顯・密の二乗を学び、ついに一流を興して衆徒を教諭し、葉上派と名付けた。当寺はその規法を相続している。その後、中興・珍祐権僧正の時より、東照宮の別當職を兼帯し、専ら尊壽院に住み、当寺には代僧を置いて諸務(寺務)を監督させている。

  • 本尊:薬師如来。また内陣に阿彌陀の木像がある。共に霊仏である。
  • 如法院:元三大師堂とも称し、慈惠僧正自作の真像を安置する。元祿元年(1688、戊辰)より、公の許しを得て、名古屋天台宗の八箇寺に移し、一ヶ月ずつ寺々を巡らせ、供物を献じ、行法を修し、国家の安全を祈り、衆生斎度の結縁をなす。江戸の東叡山の元三大師の像を、月毎に輪番をたてゝ山内の寺々に迎え、供養行法を勤める例に同じ。
  • 灌頂堂:慈覚大師の刻める大日如来の像を安置する。近国末寺の僧徒、この寺に来て灌頂受戒を受ける。
  • 経蔵古跡:むかし顯密の経典を納めていたが、乱世に廃朽し、経巻も失い、今はたゞその跡のみ残る。
  • 開山松:松樹のもとに、慈妙上人の遺骨を納めたので、このように名付くという。
灌頂井

当郡神明村の慈妙院を、俗に当寺の奧院という。そこに灌頂井というものがある。むかし慈妙上人が衆徒に灌頂受戒を授けていた時、浄水が乏しかったため、加持密咒を誦し、獨鈷(とっこ)で地を穿つと、たちまち清泉が涌き出た。これを汲みとって瓶水に充てたという。中昔、慈妙院派を改めて修験の住持となった折、当寺に井戸を掘って、かの獨鈷水を代用し、旧名によってこのように名付けたという。そのほか感妙院に影向石という岩がある。形が船のようである。慈妙上人が弁天供を修したところ、弁財天女がこの石の上に影向(現れた)されたと伝わる。

  • 寺宝
    • 後伏見帝勅筆の扁額一幅・同宸翰一通・同院宣一通。十六羅漢画像一幅。獅子の香炉一個。花島金屏風一対。以上の数品は後伏見帝が病に伏せられた際、慈妙上人に勅して祈祷させられたところ、病がたちまち治った。帝は御悦のあまり、密蔵院という額を御染筆され下賜されたと伝わる。
    • また金屏風一対。袈裟衣二領。念珠一達。思恭筆の阿彌陀。金岡筆の釋迦・文珠・普賢像。慈覺大師筆の彌陀・観音・勢至。その他仏舍利。金胎両部曼陀羅。灌頂法器具等。また大猷院殿の法事を当寺で執行された時、御寄附された宝物などたいへん多く、挙げて尽くしがたい。
  • 塔頭:むかしは三十六坊あったが、乱世に廃絶して、今は僅かに五院を残す。吉祥坊・常林坊・善明坊・常泉坊・福泉坊。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

春日井市熊野町3133番地
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