羽栗郡円城寺に在る。館の跡は鉄橋の北に二・三町の、木曽川に沿ったところにある。

野々垣源兵衞が代々奉行として、木曽川川並筏等を支配した。川並方の手代同心は約二十名附属し番所を守った。役宅(出張所)は吉田・鵜沼・神明津・北方の四箇所にあり、下役が船番、船改(船荷の管理)を行った。対岸には尾州(尾張藩)の北方役所があった。

その初めは、野々垣宗半が織田信長より證文を下され、次いで秀吉の制書を得て、徳川氏に至り慶長七年(1602)二月十日大久保十兵衞より「木曽から出る榑木や材木等は、誰の知行分であっても改めをして預り置くべきである。もし難渋の人がいれば、申し出るように。一切の諸役や川面役等の儀は前のように申し付ける」との状が出された。これ岐阜関ヶ原両陣の時に川越えの案内を務め、その他にも池田三左衞門(輝政)方に数度奉公したためである。

なお、文禄中(1592-1596)には、前後から徳田までのうち、野方およびきれ島・松原島・高田島(文禄四年 [1596] )等を預けられ(『古田兵部少輔状』『石川備前守状』)、また円城寺村の用水取入れのため、米野村に自ら杁を設けるなど、この辺りの鄕士(名士)であった。(『葉栗見聞集』)


『尾州明暦覚帳』。最低限の現代語訳を加えています。

一、木曽並びに三箇村より出る御用木は、当村の野々垣源兵衛、犬山鵜飼屋長蔵が熱田白鳥まで乗り下した。右の筏が錦織から犬山へ参ったのを長蔵が改め、犬山の筏乗りが円城寺まで乗り下し、筏の数がどれほどあっても、半分は円城寺にて源兵衛が請け取って白島へ下した。残り半分は長蔵が犬山から直接白鳥へ下した。犬山から円城寺へ乗り下して源兵衛に渡した筏の分は、犬山の筏乗りの役として勤め、乗り賃は取らなかった。円城寺から白鳥までの筏の乗り賃は、一乗につき米一斗五升ずつ支給された。犬山から白島までの乗賃も円城寺と同様であった。

一、川並流木を筏に組む(かき)賃は、一乗に付き米四升ずつ支給され、川奉行の差図次第で流木のある所へ筏乗りを遣わし、筏に組んで白鳥へ下した。筏かき賃および乗賃は御定の通り支給された。

一、筏が海辺にて乗り損じ、失木の有る時、それが少ない場合は筏乗より弁償した。多い時は訴訟を申し上げ、失木として御定の勘定が下された。

一、御用木の洗木(流木)の留賃、さはらほだ(薪)一丁に銭十四文、同かはら木(川原の流木)一丁に五文、同小樽(小丸太)一丁に二文、一間板子(板材)一枚に二十四文、一間つた(蔦・綱)一本に五十七文、二間五寸角(角材)一本に十八文、それより上の角木は間尺に応じ、木廻しに留賃を支給する、末口物は五間から七間までの木一本に七百文、薪ほだは六分一を支給し、御用木の外商人が木を留めた際は、その木の中から三箇一を支給された、ただし、ただし角倉や茶屋、犬山鵜飼屋が出した流木は御用木流木と同様に留賃を取る。

元禄六年(1693)頃まで芦渡(八百津)より前野村まで円城寺奉行の支配で、 その領村には川廻役人が一両人ずる置き、奉行して裁許させたが、この年、芦渡から小山村まで錦織奉行支配とし、川合村から福江村まで源兵衞が裁許した。享保十一年(1726)川廻役人を廃したが裁許は旧の如く。

参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)

羽島郡笠松町円城寺1426番地2
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