慶応三年(1867)三月、大垣宿の茶屋小市・八百屋源助・岩井市兵衛・河地善四郎・下里作五郎・上田久右衛門・久世治郎衛門・久保田与左衛門の八名が連名で大垣町奉行に「茶汲女」の名称で遊郭の設置を嘆願した。町奉行は小原鉄心・菱田海鷗・江馬金栗らと協議のうえ、五月に船町(当地)・瓶屋町を囲場所とし八軒に限って妓楼を普請させ、茶汲女一人につき銀五分を運上として徴収する掟書を出した。

藩は「八人の者の困窮救済と宿益など」を理由としたが、実際には藩の財政補填も目的であった。

やがて宿駅の発展に伴いまもなく新町東町に移り、一時は相当に繁栄し、なかでも吉岡楼が最も全盛を極めた。しかし明治五年(1872)十月に廃止された。

参考:『新修大垣市史 通史編一』(大垣市、昭和四十三年)621、622頁

大垣市船町4丁目26番地