琶琵島とも書く。川の東を東枇杷島といい、川の西、問屋町より二っ杁までをすべて西枇杷島という。
往昔、師長公が井戸田の里に流されて住んでいた時、里の長である横江何某の娘と馴れ初めなさったが、(公が井戸田の里に流されていた事は井戸田の城下に譲る)公が帰洛の時になった。娘はお別れを深く惜しみ、当所の西の土器野里まで慕い附いてきたので、 公も哀れに思い、守り本尊の薬師如来と、 年頃手馴れなさっていた白菊の琵琶とを、 形見に与えた。 しかしながら生き別れは却って死別よりも勝る道理の通り、 彼女は悲嘆に堪えられず、 世を憂き事に思い、やがて我が身を恨みつゝ、一首の和歌を書き残し、側にある池に身を沈め、終に空しく亡くなってしまった。
この池の跡は今は畑となって、枇杷島川の堤沿いにその旧跡を残し、琵琶池と称す。また同所西の方の小場塚村に、琵琶塚として森林の内に古塚があり、彼女の死骸を埋んだ塚であるという。思うに、枇杷島と称されるのは、いにしえにこの地に枇杷など多かったことに由来するのだろうか。しかるに彼女が白菊の琵琶を抱き、なお離情に堪えかね、こゝにある池に身を沈めたことから、その池を琵琶池といいはじめ、枇杷・琵琶の発音も近いので、好事の者が多く「琵琶」という文字を用うのだろう。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)