木曽川の渡し。起驛から墨俣驛までの間に、木曽川(起川)筋の「起の渡し」、長良川(墨俣川)の「墨俣の渡し」、境川(坂井川・酒井川)の渡しがあった。坂井川の渡しは、平時は徒歩で渡ることができたが、増水時には船で渡った。起の渡しは八町三十間、俗に四百十間(約745m)という国内最大の川幅を持つ渡船場であった。

渡しのはじまり

慶長十三年(1608)十月、小信川の流路を留めて堤防を築く工事ののち、伊那備前守忠次によって「起川船頭給」は六十石で支給されていた。ただしうち十石は堤の敷地で以前は井戸水がなく旱魃が度々あり実際は五十石であった(享保9年『御舟方御用留』)。起川(木曽川中流域の名称、上流は太田川という)の川幅が広がり、川筋の安定とともに公用人の往来が活発化してきたため、定渡船と船頭を定置することが必要となったためと考えられる。寛永十年(1633)には、船頭給の六十石は召し上げられ、代わりに船頭十二人に扶持米が支給され、定渡船二艘が定置されるようになった。

三種類の船

起の渡しでは定渡船・馬船・鵜飼船の三種の船があった。
定渡船は日常的に使用される渡船で、三艘が常備され、うち一艘は予備で「置船」とよばれ、天保十四年(1843)には、長さ約14m・幅約1.7m・高さ0.4mの大きさだった。

船頭給は寛永十年(1633)に十二人扶持で始まり、万治三年(1660)には二十人扶持へと増えた。この二十人は、昼六人、夜四人の交代制で勤務し、船一艘につき二人の乗船が義務付けられていた。

馬船は、馬を乗せやすいように船首と船尾が平らに作られており、大量の荷物の運搬にも適していた。大きさは長さ約10.8m・幅約1.5m・高さ約0.4mだった。船数は明和年間頃より十四艘で一定している。多くの馬や荷物を伴う大名の通行時は馬船は不可欠であったため、修理や作り替えの際には藩から、無利息十年の拝領金を受け取ることができた。寛保元年(1741)以後に定着した。

鵜飼船は、鵜飼だけでなく水運にも用いられ、一部の船では修繕の材木の拝領が許されていた。明暦四年(1568)には大鵜飼船七艘、小鵜飼船四艘があり、元禄十六年(1703)に小鵜飼船に対して材木拝領が許された。その後、材木拝領大小鵜飼船は十七艘となった。鵜飼船の持主は驛の百姓であり、馬渡船の持主は本陣の船年寄であった。

幕府の公用や大名行列、朝廷使節、朝鮮通信使、御茶壺道中など、大人数の通行で常備の船が足りない場合、流域の村々から船を動員する「寄船」という仕組みがあった。先触れが届くと、起宿の船庄屋が尾張藩の船手役所に報告して、船手役所が各村の庄屋や船持(船の保有者)に起への寄船を命じた。天明三年(1783)五月・六月の藤堂和泉守高嶷の伊勢国桑名への渡船では、佐屋船会所が起宿船庄屋に一八艘の鵜飼船の寄船調達を通告している。

船橋

将軍上洛、朝鮮人往来の際は、船橋を架ける。墨俣川もまた同じ。尾州船奉行水奉行と加納役人が共同であたった。用縄は濃州郡奉行の取扱であった。

参考
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)
愛知県史編さん委員会『愛知県史 通史編4 近世1』(愛知県、平成30年)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)

一宮市起堤町39番地
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