正覚寺

狼の喉の異物をとった和尚

龜足山正覺寺。伝町今道の北側にあり。浄土宗西山派、京都禅林寺・光明寺の両末で、当國(尾張)三箇檀林(三大学問所)の一つである。当寺は永享六年(1434)融傳永乗和尚が創建した。

融傳が部田(現東郷町)の祐福寺住持であった頃、熱田大神を信仰して、しば〳〵参拝していた。ある時、鈴宮の側で老翁に逢ったが、「我は当社の神職粟田城太夫なり。師にこの地を寄附しよう。精舍を造立し衆生をお救いなさい」と、言い終わると立ち去り、その行方は分からなくなった。

翌日、融傳がかの城太夫の宅に行き、前夜の約束を話したところ、城太夫は前夜見た老翁ではなく、全くの別人であった。またその約束をした覚えもなく、そのうえ寄附するといった土地も、城太夫の持ち物ではなかく、地主は他人であることを答えた。 城太夫はつく〴〵思いを巡らし、「大神が我に託して融傳に示現されたのだろうか」と、かの地主のもとへ行き、この事情を話し合ったところ、地主もまた大神の神慮である事を悟り、ついにその土地を融傳に授けたという。そして、堂宇を造立して住職となり、永享九年(1437)四月十一日に寂す。

融傳がある時、祐福寺から熱田へ詣でようと、鳴海山を越えていたところ、いきなり狼が一匹出てきて、大きな口を開き、融傳に立ちはだかった。よく〳〵見ると、咽喉に物がつかえて苦しんでいる様子だったので、狼の口に手を差し込み、かの物を取り出してみると、果たしてひし角のある骨であった。そして狼は甚だ悦んでいた様で、尾を振り、融傳を仰ぎみて拝謝して去ったという。

また夏の日に、その山中で喉が渇いたため、錫杖で地面を突いたところ、たちまち清泉が湧き出て、喉の渇きを潤したという。今なお鳴海の山中にあって、融傳泉と称するものはこれである。融傳の道徳に想いやられる。

本尊

阿彌陀立像。恵心の作で、佐久間大膳亮勝之の持念仏。脇壇に十一面觀音・地藏尊を安置する。

鎮守

氷上神社。

亀足井

本堂の側にある。開山は融傳、熱田の神勅によってここを掘らせたところ、大きな亀の足を掘り出した。これはその山号の起こる所でその舊井である。

寺宝

もとはたいへん多かったが、累年の火災に罹り、今残っているものは十に一つである。

大幅(大きい掛軸)の浄土曼陀羅は、たいへん古いもので実に千二百年余前の物である。天平宝字七年(763)の文字、金泥で書かれたものだが、かすかに残って見えている。『日蓮宗連署状』及び『東照宮朱章』、また『宗論記』等は、当寺十三世の住僧澤道と、武蔵国常楽院日経が、浄土・日蓮両宗の勝劣を論じていたが、ついに慶長十三年(1608)神君(徳川家康)の御前において諸侯方列座のなか、澤道・日経の宗論があったが、日経は論じ負けてその詫び状(怠状)を差し出したのであった。また、法に従い、剥ぎ取った日経の袈裟衣が、今もこの寺に所蔵されている。今、板行本(木版印刷本)として流布する『淨土日蓮宗論記』というものにも、その時の宗論の事がみえる。

そのほかに古書古画等多く、また後花園天皇・後陽成天皇等の宸翰(天皇の直筆)、および國君(藩主)の御真筆も多く所属する。

塔頭

もと五院あったが、退伝して今は真乗院慈眼寺のみ残っている。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市熱田区
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