元亀元年(1570)十一月、当地の浄土真宗の門徒は石山本願寺を援ける為、願証寺を拠点に信長に対して蜂起した。
以降三回に亘って戦いが繰り広げられた。最初の攻撃は元亀二年(1571)五月に始まり、一揆勢は激しく抵抗し、西美濃三人衆の氏家卜全(直元)は戦死、柴田勝家も負傷するほどだった。二度目の攻撃は天正元年(1573)九月に行われ、信長は再び敗れた。十月、信長が北勢から帰陣するため多芸山に差しかかった時、美濃多芸十日講(十日おきに集まる講)を中心とする約三千人の一揆勢に襲われ、百三十人が討ち死にし、信長自身もようやく大垣へ逃れて帰陣した。三度目の攻撃は翌二年(1574)七月から展開され、遂に一揆勢は敗れて全滅した。
参考:『上石津町史』(上石津町、昭和五十四年)155、156頁