矢田村のうち、木ケ崎にあり。弘長二年(1262)に天台宗寺院を改宗し、尾張の臨済宗寺院の始原となった。臨済宗は、禅僧の中国的教養と実践的性格が武家階層の支持され、鎌倉新仏教の中で最も早く発展し、鎌倉や京都に寺院を開創した。京都に東福寺を建立した円爾の門下の無住道暁が、尾張にきて当寺を改宗した。

臨済宗、京都東福寺の末寺。山号は霊鷲山。高倉帝の治承三己亥年(1139)、山田次郎源重忠が、母の菩提のために建立し、観勝法師を以って開山とする。(ある説に、父の為に長父寺も建立したが、今は廃れて当寺のみ残った。)もとは天台宗の道場で大伽藍だったが、年を経て破壊し、弘長三年(1263)、無住大圓国師が当山に来住してから、今の臨済宗となる。

『無住國師道跡考』に、師の諱(いみな)は無住、字は一圓、別に道曉と號す。嘉禄二年丙戌(1226)十二月二十八日卯時(6時頃)、相州鎌倉で誕生する。梶原景時の末裔である。父の夢に、この夜この里に生れた人は大果報の者だ、と告げる人がいて夢が覚めた。暦仁元年(1238)十三歳、壽福寺に入り童役を勤める。仁治元年(1240)十五歳、下野の伯母の許へ下る。同二年(1241)十六歳、常州(常陸国)へ行き親族に養われる。寛元元年(1243)十八歳、常州法音寺で剃度(ていど)して、一圓と號す。おおよそこの頃三井の名徳大半は関東に住む。師の三井の圓幸敎王坊法橋に就いて倶舍論頌疏を聴受する。 寛元四年(1246)二十歲、 法身坊上人に従って、法華玄義を聴問する。この年剃度の師法音寺を譲る。建長五年(1253)二十七歲、師素より三学兼備の志あるとして、住坊を以って律院とする。同年世良田の長楽寺に行き、栄朝上人に就いて釋論を聴採する。建長六年(1254)二十八歲、遁世の身となる。建長七年(1255)二十九歳、國城寺に上り、實道坊上人に就いて止観を聴聞する。それから南郡に行き、五・六年の間律学を策す。弘長元年(1261)三十五歳、また関東へ下り、壽福寺非願長老の座下で、圓學経を聞き、座禅に志す。未だ一年も満たないうち脚気の病が起こり、坐禪心に任せず。弘長二年(1262)三十六歲、 元来密教相伝の志があり、和州菩提山に上って留り学ぶ。東寺三寶院一流の事相、悉くこれを得る。法相宗の法門もこの時これを学ぶ。その頃、聖一國師東福寺に住み、大いに教外別伝の法雷を震う。師菩提山より直ちに東福寺へ往き、國師を拝して天台の灌頂谷の合行秘密灌頂を伝え、『大日經義釋』『菩提心論』『永嘉集』『宗鏡録』等を聞き、日夜熱心に励み教外の禅旨に参す。

弘長三年(1263)三十七歳、この霊鷲山長母寺に来住する。弘安六年(1283)五十七歳、『沙石集』十巻を著す。弟子無盡道證これを受け、京都西方寺で出発する。この書は今に至ってもなお盛に天下に流布し、僧俗貴賤なく尊信する。この時分の書が天下のもてはやしとなるのはたいへん稀である。正應年中(1288-1293)萬歳樂と號して、正月の初壽を祝う謡物を作り、徳若という小者に授け、家々に至って歌わせる。今に至って益々盛んになる。その謡の詞、多く法華経を用う。いわゆる狂言綺語の業によって、讃佛乘(仏の教えを讃え)の因、轉法輪(仏の教えを広める)の縁とする意があったのだろう。永仁三年(1295)六十九歳、高野山に上り、この山に葬られる亡霊得脫の為に、加持土沙三斛三斗を取り寄せ、山内に散布した。正安元年(1299)七十四歲、『聖財集』三巻を長母寺で草稿し、その後蓮華寺で添削する。よって今、現に長母寺の所蔵本には奧書がある。正安二年(1300)七十五歲、『妻鏡』一巻を著す。嘉元三年(1305)満八十歳、寺内の金剛幢院で『雑談集』十巻を執筆する。弟子慈眼が受けて、本州萬徳寺で刊行する。師寺を無翁に譲り、寺内桃尾軒に退隱し、自らの手で肖像を作る。紙で張子にした肖像である。今も現存する。正和元年壬子(1312)八十七歳十月十日、遺偈(ゆいげ-遺言)を述べて、

一滴浮海八十七年。風休浪靜依舊湛然
(:一滴、海に浮ぶこと八十七年。風休み、浪静まり、旧に依って湛然たり。

と、穏やかに入定したと見え、天文十五年(1546)大圓國師と諡す(死後の名)。

在住のうち、伊勢の桑名郡益田村の蓮華寺を兼帯して、四十余年住職のうち、常に熱田宮を信じ、数度参宮したので、大神も師の道徳を仰ぎなさり、五種の宝器を寄せなさったが、今は多く散失したといい伝えられる。その中の一品として、唐躑躅(とうつつじ)という名木がある。むかしある人、この木を取って庭前に植えると、忽ち狂乱したので、元のように返した事が、『因果物語』に見える。國師入定の後も、益々繁栄して、堂舍僧坊、甍(瓦屋根の家々)を並べたが、秀吉公に没収されて、足利・織田家に寄附された寺領も廃し、仏殿・坊舍も兵火に罹り、大破したのを、政秀寺の開山澤彦和尚が来て再興し、その後もまた微々として衰えたのを、近世是鑑という僧来住し、坊舍を営んでいるので、やゝ旧観に戻した。そもそも当山は、矢田川の中にあって、もとは川筋が当寺の大門前を流れていたが、明和四年(1767)の山つなみ(大規模土石流)に、当山の真ん中を押し流して、自然と川筋となり、寺の後を流れ、門前は平沙となった。よって往昔とは違い、分かれて左右に相対する。

本尊 阿彌陀の木佛。

影堂 國師自作の紙張の肖像を安置し、『勅諡大圓國師』の六字をかゝげる。

観音堂 聖觀音を安置する。恵心僧都の作。

宝篋印塔 元禄九年(1696)國君(尾張藩主)の御寄進で建立し、塔内に鑑眞律師将来の仏舍利三粒を安置する。その時の導師は大和國長谷寺卓玄僧正。

鎭守

五社明神 境内西の方にある。

熱田社 門外西の方にある。大神無住の道徳を慕い、来臨されたことをいい伝え、そこを今に御幸山と称す。

山神社

辨財天社

鐘樓

寄生樹 中門を入って東の方に植込がある。ここの木々には、どの枝でも檜のような木の芽を出す。当山の名木である。すべて名僧入定の地には、必ずこれがあり、紀州高野山をはじめ、その他にもあるという。総じてこの山林は霊地で木の葉を取る事を禁じられる。ある人が遠騎ながら参詣し、馬を門前に繋ぐと、かの馬は藪垣の笹を喰ったが、忽ち狂乱したことがいい伝えられる。

寺寶 兆殿司畫の十六羅漢をはじめ、開山自筆の書数多ある。その他諸家の證状・寄進状等多い。

参考:『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市東区矢田丁目番
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