天文(1532-1555)の頃、西濃三人衆の氏家常陸介友国(卜全)(◎楽田城のち◎大垣城)が要害に構えた。そうしたところ、元亀三年(1572、壬申)三月、安八郡成田の城主・高木十郎左衛門尉好康がここに移り住んだ。高木好康は、初名を佐吉といい、織田信長に仕官していた。晩年は十郎左衛門と改めた。好康の父を高木彦之丞正朝といい、当国美濃の山県郡高木村より出た者である。また好康の弟に高木権右衛門安正という者がいたが、同じく信長に仕えた。
そうして十郎左衛門好康は、この城に長く住んでいたが、時がうつり慶長五年(1600)に至り、青野ヶ原合戦の際に石田治部少輔三成に同調して、高須の城に立てこもった。
いよいよ関ヶ原の合戦が始まろうとする前、尾張国清須の城主・福島左衛門大夫正則が、美濃国の西方を巡見するため、わずか二百騎余にて尾張より出陣し、西美濃安八郡今尾の城主・市橋下総守のもとへ赴き、このたびの美濃路へ出ている敵方の情勢を聞き軍議を行ったが、その時高木は三成に与力していた。そうして「まず高木の居城・高須を第一に乗っ取るべし」と軍議が成った。これによって、即刻、同郡松木城主の徳永式部卿法印寿昌(以下法印)へ密談したところ、法印は了承し、家来の布家市右衛門ならびに一向宗の坊主の安八郡加納村の室寿坊を密かに高木の元へ遣わし、「速やかに石田の一味を離れ、兜を脱ぎ関東(徳川方)に降参し、開城して渡され然るべき」と利害を説いて申し上げた。高木、これを聞き、いかがせん…と迷い、原隠岐守久頼が太田村の中島郷に在陣していたため相談したが、原は無二の石田方であったため、「兎にも角にも承諾せざるの旨然るべし(承諾しないのが当然)」とし、高木はその旨を徳永の方へ返答した。それでも、法印は様々な計略をもって高木を大いに欺き、降ちた後の行末のことまで申し遣わし「一戦して城を明け退くべし」と取り決めたのであった。
さて慶長五年(1600)八月十九日、徳永法印・同左馬助の父子、市橋下総守長勝、横井伊織、同孫左衛門、同作左衛門、ならびに福島正則からの加勢ら三百騎余、馬の目口(大手口)へ押し寄せる。高木はかねて示し合わせていたため、少しも臆せず兵士を励まし防戦した。寄手の横井作左衛門や法印の家臣・河村忠右衛門らは、成田村から搦手(裏手)へ回って攻めかかった。高木の家臣・河瀬小太夫は防戦したものの、ここにて討死。
また寄手の徳永左衛門は姓名を名乗り一番乗りで攻め入ろうとし、城兵の寺倉孫左衛門はこれに渡り合う。寺倉は二間柄(約3.6m)の槍、徳永は九尺柄(約2.7m)の大身槍を持ち戦っていたが、そこは幅がたいへん狭い小道で、両側が高い藪であった。背後に回ろうとする者もなく、ただ二人のみ戦っていたが、徳永左衛門は戦い疲れ、深手を負って退き、寄手は大いに駆け立てられ、敗走するに至った。
さらに徳永の家臣・河村所右衛門が二の丸へ攻め入ったが、城中の鉄砲に撃ち倒され、首を取られてしまった。このようにして、なかなか城を乗っ取ることが出来ず、福島正則の家老も数多討たれ、正則の方からこれを制し「ひとまず囲いを引き取るべし」。これによって、徳永も無念ながら高須の囲いを引き取った。
高木もまずは安堵したが、そうはいっても当城に後詰もなく、長く籠城もなり難いと察し、敵が退いたのを幸いに、夜中に城を出て福岡の綱手に差し掛かり、駒野の渡しで船を渡して山手の方へと退いていった。
これより徳永法印が松木城からここに移り住み、その子左馬助が続いて住んだが、寛永五年(1628、辰)、故あって所領を没収され、これにより城は破却して、守将もまた断絶してしまった。
徳永式部卿法印寿昌は、はじめ尾張国丹羽郡と美濃国松ノ木で二万石を領していたが、のち一万石を加増され松ノ木城主三万石となった。慶長五年(1600)の関ヶ原役での戦功によりさらに二万石を加増され、尾張国の領知を改められ、多芸・不破・石津・海西の四郡に五万六七三石を領し、高須を居城とした。
寿昌は翌慶長六年(1601)より三年かけて、城郭を修築し、家中屋敷や町屋を建て連ねた。またその子・昌重には多芸郡根古地村で屋敷を構えさせた。一方、領内支配には土豪を活用し、押越村の渋谷六左衛門、飯ノ木村の丸家六兵衛、龍泉寺の西脇久右衛門尉らが中心となった。寿昌は、慶長十七年(1612)(慶長十六年<1611>説も)七月十日に没し、高須の広徳寺に葬られた。
ついで寿昌の子・昌重が遺領を継ぎ、大坂冬の陣(1614)・夏の陣(1615)で戦功を挙げ、元和三年(1617)九月五日、新たに開墾した土地を合わせて五万三七〇〇石余の朱印状を与えられた。
寛永四年(1627)、昌重は大阪城改築で二の丸の石垣築造を命じられたが、酒色に溺れて工事監督が行き届かず、期日近くに石垣が崩落してしまった。これを受けて子の昌勝は父の乱気を理由に自らその工事にあたることを前将軍秀忠に願い出て、秀忠は了承した。しかし将軍家光は、父子の間で内分にすべきことを父が乱気と申し立てるとは親不孝な所業であるとして、翌年(1628)二月二八日に所領は没収した。
昌重は出羽国の荘内城主・酒井宮内大輔忠勝に預けられ、同十九年(1642)六月十八日にその地で没した。昌勝は越後の新発田城主・溝口伯耆守宣勝に預けられたが、慶安元年(1648)の家康三十三回忌に許され、同三年末に食録二千石を与えられて寄合に列した。
旧領の村々はしばらく幕府直轄となり、岡田善同の支配となった。
寛永17年(1640)9月、小笠原土佐守貞信が来治した。貞信は多良村(上石津)の高木権右衛門貞勝の長男として生まれ、寛永十六年九月に下総国東葛飾郡の関宿城主・小笠原政信の養子となり、翌十七年九月十四日に遺領を継いで十一月に関宿から高須へ移り二万二千石を領した。
徳永氏が改易されたのち十年余も明(あき)城となっていたため、城の破損はもとより、家中屋敷も二・三残るのみで町屋も大半が移住し去っていた。そこで貞信は城下の復興につとめ、延宝九年(1681)には「繫昌の城と相成り、郷中堤樋共丈夫に相成り、万民安堵」するまでに至った。
しかし高須は水害が多く、年貢米が年々欠損するため、元禄4年(1691)七月二六日貞信は願い出て越前大野郡勝山城二万三千石に移った。その後、一時は幕領となり、やがて笠松陣屋支配となった。
元禄13年(1700)には、尾張藩二代光友の次男義行が来治し加増1万5千石、旧領信濃国1万5千石を以って三万石となった。
参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)28頁
『養老町史 通史編 上巻』(養老町、昭和五十三年)150-160頁