海西郡高須は天正十二年(1584)より文禄元年(1592)まで、秀吉の旗本・日根野彌十郎信勝、次に加藤傳左衞門重次が居住した。文禄元年(1592)高木十郎左衞門盛兼が所領一万石を得て、高須廻り三万石の格でこの地に移った。城廓は大手門が小さく二ノ丸上格子の構えだったという。(『高須舊記』)圖志に守之となっている。
徳永式部卿法印寿昌は、はじめ尾張国丹羽郡と美濃国松ノ木で二万石を領していたが、のち一万石を加増され松ノ木城主三万石となった。慶長五年(1600)の関ヶ原役での戦功によりさらに二万石を加増され、尾張国の領知を改められ、多芸・不破・石津・海西の四郡に五万六七三石を領し、高須を居城とした。
寿昌は翌慶長六年(1601)より三年かけて、城郭を修築し、家中屋敷や町屋を建て連ねた。またその子・昌重には多芸郡根古地村で屋敷を構えさせた。一方、領内支配には土豪を活用し、押越村の渋谷六左衛門、飯ノ木村の丸家六兵衛、龍泉寺の西脇久右衛門尉らが中心となった。寿昌は、慶長十七年(1612)(慶長十六年<1611>説も)七月十日に没し、高須の広徳寺に葬られた。
ついで寿昌の子・昌重が遺領を継ぎ、大坂冬の陣(1614)・夏の陣(1615)で戦功を挙げ、元和三年(1617)九月五日、新たに開墾した土地を合わせて五万三七〇〇石余の朱印状を与えられた。
寛永四年(1627)、昌重は大阪城改築で二の丸の石垣築造を命じられたが、酒色に溺れて工事監督が行き届かず、期日近くに石垣が崩落してしまった。これを受けて子の昌勝は父の乱気を理由に自らその工事にあたることを前将軍秀忠に願い出て、秀忠は了承した。しかし将軍家光は、父子の間で内分にすべきことを父が乱気と申し立てるとは親不孝な所業であるとして、翌年(1628)二月二八日に所領は没収した。
昌重は出羽国の荘内城主・酒井宮内大輔忠勝に預けられ、同十九年(1642)六月十八日にその地で没した。昌勝は越後の新発田城主・溝口伯耆守宣勝に預けられたが、慶安元年(1648)の家康三十三回忌に許され、同三年末に食録二千石を与えられて寄合に列した。
旧領の村々はしばらく幕府直轄となり、岡田善同の支配となった。
寛永17年(1640)9月、小笠原土佐守貞信が来治した。貞信は多良村(上石津)の高木権右衛門貞勝の長男として生まれ、寛永十六年九月に下総国東葛飾郡の関宿城主・小笠原政信の養子となり、翌十七年九月十四日に遺領を継いで十一月に関宿から高須へ移り二万二千石を領した。
徳永氏が改易されたのち十年余も明(あき)城となっていたため、城の破損はもとより、家中屋敷も二・三残るのみで町屋も大半が移住し去っていた。そこで貞信は城下の復興につとめ、延宝九年(1681)には「繫昌の城と相成り、郷中堤樋共丈夫に相成り、万民安堵」するまでに至った。
しかし高須は水害が多く、年貢米が年々欠損するため、元禄4年(1691)七月二六日貞信は願い出て越前大野郡勝山城二万三千石に移った。その後、一時は幕領となり、やがて笠松陣屋支配となった。
元禄13年(1700)には、尾張藩二代光友の次男義行が来治し加増1万5千石、旧領信濃国1万5千石を以って三万石となった。
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)28頁
『養老町史 通史編 上巻』(養老町、昭和五十三年)150-160頁