※正確な場所は不明

享和二年(1802)八月、大垣魚屋町に米会所が設けられ、米穀の取引が行われるようになった。運上として年に金六十両を藩に収納した。多度山頂に中継所を設け、手旗信号によって桑名の米相場を大垣へ通報した。

文化・天保の頃(1804-44)には、農民の米穀延商いを禁じ、農民が商業に従事することを禁じた。

打ちこわし、えいじゃないか

慶応二年(1866)、西美濃では米騒動が高騰し、四月初めには米一俵三両銀十匁ほどに騰貴した。赤坂・神戸・伊尾筋では難渋の農民が米価の引下げを願い出たり、五月になると神戸では
「早鐘ニて度々寄合、交易ニて米高値、必難渋いたし候間、米三百俵借り申度、不承ニ候ハ、乱妨ニ可及」
などと打ちこわしの様相を呈した。しかし、翌三年には米価は下落し、激しかった一揆や打ちこわしは全国的に下火となった。

しかし、今度は、「えいじゃないか」というお祭り騒ぎが東海道筋の三河あたりから広がり美濃地方にも波及し、大垣城下から伊尾町にかけては三年の夏辺りから「お札降り」としてはやりだした。「長州のおかげで百にお米が一升する えいじゃないか えいじゃないか」というようなはやり歌が流行した。そして各地で美濃一宮南宮や善光寺如来など神社や寺のお札がばらまかれ、若者達が踊り狂うという事態が発生した。沓井の阿子田藤左衛門は、大垣でそのようすをみて「狐ついたが皆のもの 親もおどるし子もおどる」と戯歌を呼んでいる。

参考
『新修大垣市史 通史編一』(大垣市、昭和四十三年)645頁
『池田町史 通史編』(岐阜県揖斐郡池田町、昭和五十三年)346頁

大垣市魚屋町20番地2