下宮で、持法山密厳寺ともいう。
勤学院を開いた最澄は自ら九重の守を刻して寺宝とした。また山王社を勧請するために上宮・下宮それぞれに四柱の神体を刻んだが、関ヶ原役により下宮の神体が焼失し、源頼朝からの朱印八十町歩と勤学院の七堂伽藍を失ったという。
参考:『神戸町史 上』(岐阜県安八郡神戸町、昭和四四年)70頁