※詳細な場所は不明

桑名町通・袋町の北の良学院の辺りに居住し、また九十軒町にも寓居していた。元贇は明の虎林県の人であるが、明季の乱を避けて来日し、國祖君(尾張藩初代藩主徳川義直)の厚遇され、当府(名古屋城下)に住んだ。寛文十一年(1671)六月九日、年八十五にして死ぬ。深草の元政や方外と交わり、詩文の贈答『元々唱和集』が残る。墓は建中寺にあって、碑面に『大明國武林既白山廣學陳元贇、寛文十一辛亥年(1671)六月九日沒』と見える。その傍に白翁道元の碑があるが、これは元贇の子、俗称源太郞の墓で、『寶永二年(1705)九月二日没』 と記す。
※明季の乱は明代末期の乱で明が滅亡し清に代わった。

また『拳法祕書』によれば、元贇が江戸麻布の國正寺に滞在していた頃、福野七郞右衞門・磯貝次郞左衞門・三浦與次右衞門という三人の浪人があり、 同じくかの寺に身を寄せていたが、元贇が彼らに語るには、「明朝に人を捕る術があり、我がその技を見るにしか〴〵....」と言う。三人は終に工夫を凝してその術を得た。これは即ち起倒流の柔術である。
※起倒流の柔術は、相手の力を利用するのちの合気道の基盤になった。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)


名古屋市中区錦2丁目7番29ー2号