黒田村にある。臨済宗、京都妙心寺の末寺。建久元年(1190)十月、右大将頼朝公が上洛した時、当寺の地蔵尊を拝み、寺領を寄附し、また剣を一口を奉納された。剣光寺の名は、ここからよび始めたという。地蔵はもともと霊像だったので盗まれ、 その後寺も廃したりしたが、 永禄三庚申年(1590)、 以安和尚が再興して、 今は「一宮の地蔵」と呼ぶ。ここは当六地地蔵の一つで、かの「岸繩手の地蔵」ともいう。

『慰草』(最低限の現代語訳)に、つれ〳〵なるまゝ、近寺におられる地蔵に参り、老僧がむかしの物語を語るのを聞いて、日を過ごした云々。卯月の下旬の四日、例の御堂に参ったところ、夕方ごろになれば、人も参らず、灯明をかゝげる人もなく、不断の香の煙かすかなる、心ぼそし。この仏像の事は、都でも聞き伝えられ、古は歩いてくる人も多く、御堂のかざりもきら〳〵していたとか。明徳の軍の場になってから、形もなくなりぬると人も語る。世の中の盛衰は、仏の御上にも及びと哀れなことよ云々。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

一宮市木曽川町黒田寺東9番地
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