旧龜尾天王社で、御宮の東隣に鎭座していた。
延喜十一年(911)三月十六日、醍醐天皇の勅によりこの地に鎭座したことが、当社縁起に見える。天文元年(1532)三月十一日、那古野合戦の兵火に焼亡したため、同八年(1539)再び造立した。
慶長十五年(1610)御城御営築の時、城郭内だった為、 他に遷す議定があったが、神慮を測りかねたため、徳川家康の思し召しで神前で御籤(おみくじ)を取ると、他に遷らずとの御鬮が再三下った。また往昔、家康が若かった時、この天王坊に三年程滞在された縁もあり、終に外へ遷ることはやめた。かくして御城擁護の鎭守、府下の氏神といわれ祭られている。小兒の髮置・袴着をはじめ、参詣する人が常に絶える事がない。
拝殿の西にある。昔、嫉妬の婦人兒に呪いをかけ、しばしばこの樹に釘を打った事が有るので、國君(尾張藩主)の計いにより、寛文十二年(1672)に樹の周りに柵を巡らせて後、木の根元に人が寄ることは出来なくなった。
雪舟の十六羅漢の屏風・周文花鳥の屏風等多くある。また織田彈正忠以下諸将の古證文・寄進状等数通、そのほか神仏の畫像も多い。拝殿の鰐口には、元龜元年(1570)八月二十四日の文字が見え、本地堂の鰐口には「大永八年(1528)戊子正月日鑄之」と彫られている。又『鹽尻』に
天王祠正體、鏡形面中畫牛頭天王、上畫婆利女、左右畫八王子。裏曰、奉施入牛頭天王御正體、勸進沙門勝尊并縁阿彌陀佛。正安二二年壬寅四月十一日
とあるのが見える。
六月十五日の夜、片端御園御門より東の方に車楽を置き、数多の提灯が掲げられる。またこの祭に関わる町々から、小さな山車が曳き来る。これを見舞車という。
その他、府下の子供等が、笹に小提灯をつけて捧げる有様は、皎々たる月に映える数千の紅燈は白昼のようであり、貴賤の群衆、潮の湧くが如し。実に夜景の壮観なり。また十六日朝には、前夜の車楽に能人形を飾って引き渡す。子供の舞などあって、古雅である。
天王の別当で、天王坊と号す。真言宗で、京都仁和寺の明王院を兼帯する。伊勢国多気郡の長松山安養寺と同派で、開山の恵日国師は、禅・密兼学の知識があった。後園の假山、樹木の位置、自ら幽致した。これは古田織部の好みで、唐土廬山の風景を写してしる。また茶室も同人の好みだが、江戸末期にも残っていた。亀尾山の額は明人・陳元贇の弟、安養寺の額は朝鮮人・雪峰の筆。塔頭は常林坊・南坊・西坊の三宇あった。
龜尾山ニ登リ如實上人ニ呈ス『暢園詩草』(岡田新川)
瑜伽境大城ノ間ニ在リ。緩歩春ニ乘ジテ試ミニ一タビ攀ツ。水ニ浴スル文會符帶ヲ含ミ。園ニ滿ル芳樹華ケ麗マンヲ結ブ。香雲偏覆ス三摩ノ地。彩石嵌空ス九仭ノ山。幸ニ闍黎ノ翰墨ヲ憐ム有リ。優遊共ニ餘閑ヲ樂ムヲ得。
明治4年(1871)に社領を没収され、安養寺も破却された。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)