稲葉佐渡守正成が居住した。江戸時代には田んぼとなっていた。

稲葉正成は林宗兵衛正三の子で稲葉兵庫頭重通の養子となり、稲葉内匠助のちに佐渡守を名乗った。豊臣家に仕え、天正一二年(1584)の小牧長久手の戦いでは一四歳で尾張犬山軍に従軍し、朝鮮の役でも戦功をあげた。のちに秀吉の命によって小早川秀秋の老臣となり、関ヶ原役では秀秋を東軍に味方させるため尽力した。秀秋没後は徳川家に仕え、慶長十二年(1607)に安八郡内などで九千石、旧領十七条で千石、合計一万石を与えられた。

その後正成は大阪の陣でも軍功をかさね、元和四年に松平伊予守忠昌に属して、忠昌所領の越後糸魚川で一万石を加増された。忠昌が元和九年に越前へ転封した際、正成は従わず嫡子正勝の采地である常陸国狩岡に閑居した。寛永四年(1627)には下野国真岡で二万石を与えられたが、翌年九月に五八歳で没した。

正成は幼名を一助といい、その後八右衛門・内匠と改称して、最終的に佐渡守に叙任された。後妻のお福は明智光秀の甥・斎藤利山の娘で、のちに江戸城大奥で活躍する春日局として知られる。お福は正成の後妻となり、正勝・正定・正利の三子をもうけたが、夫妻の仲は極めて悪く、やがて正成と別れて徳川家光の乳母となり春日局を名乗った。

河村久五郎屋敷

森部には城屋敷という地名があり、河村久五郎の屋敷があった。

森部での織田と斎藤の戦いで、森部城主・河村久五郎は織田方で参戦し斎藤方の神戸甚助を討取って信長から感状を得たという。織田勢が去った後も河村氏はこの地を守ったとされるが、詳細は不明。江戸期には内宮、外宮を掌る神官に河村氏があるが、久五郎との関係は不明である。

参考:『安八町史 通史編』(安八町、昭和五十年)36頁

安八郡安八町
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