美濃国守護土岐氏三代・土岐頼康の居城。なお城を築造したのは父の頼清であったとみられる(『揖斐川町史』)。
土岐頼清は土岐氏一代の頼貞の子であったが、延元元年六月に摂津国芥川で病死し、弟の頼遠が家督を継いだ。頼遠は本拠を土岐郡大富から厚見郡長森城に移した。「土岐たえば足利たゆべし」と尊氏からいわれた土岐家であるが、頼遠は傲慢な振舞いが多く、康永元年(1342)八月に光厳上皇に不敬を働き、斬罪に処された。その後、頼康が家督をつぎ、土岐家三代目の美濃国守護となった。
『揖斐記』には、頼康が「当城ヲ改築シ城郭内ニ多数ノ建物ヲ造営シ、登城道・帰城道ノ二線ヲ開墾シ諸門ヲ建造、防備内外二条ノ大掘割ヲ各所ニ切下工事ヲ施シ」要害無比の堅城にしたとしている。
小島山の西の峯から東南へ伸びる尾根の中腹の突起した小高地があり、ここから南下方の斜面を段状に削平したり盛土したりして八十余の平地を作って城址がある。
城址の最高地と西北の峯からの尾根との距離は十五間隔てられ、約六m低く城址の後方を切り下げられており、鶴ヶ城、徳山城、根尾城と同じ構造である。最上段の平地は、東西11m、南北は東側5.5m、西側9mあり、物見櫓があったところと考えられている。そこから南へ一五段の細長い平地(幅二~七間)が続いている。昭和二年九月県の史跡標識が建てられ、保存が図られている。(『岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第十輯、調査委員小川栄一「小島城阯」)
参考:春日村史編集委員会『春日村史 上巻』(岐阜県揖斐郡春日村、昭和五八年)97、98頁