流下した木を筏にする

慶長十五年(1610)に創設された。上流から還流されてきた木材を抑留して筏に組立て下流の鵜沼に回漕する。また下麻生は、飛騨川を人力で曳き上る川船の終点であり、ここから上流への荷物は馬の背で陸路で運ばれていた。

普通の筏は二間(3.6m)の材を二五~三十石(50本)組んで、下麻生綱場から二人の乗手によって犬山へ乗り下げられ、犬山からは筏二枚を繋いで一人乗りで円城寺まで、ここで三、四十乗の筏材団を構成して、一、二艘の見送り舟を供に数人が乗り込み、桑名・白鳥まで流送した。

下麻生役所

尾張藩の川並奉行配下の役人が駐在し、川下げ筏の統制と綱役銀、船役銭の徴集に当たった。なお、ここより八里上流の益田川の下原中綱場は高山役所から手代や地役人が派遣され、流送された木材の点検が行われた。

課税の起原は明らかでない。寛永十九年(1642)役員を配置し、六分一の代銀を徴収する(六本に一本分)。船役銭は船奉行に納める。また問屋が三人おり、岡役銀(陸路の貨物税)を課した。(『明暦覺帳』『古義』)

幕末には役員を置かず、村長に監督させ、毎年税金を納めさせた。(『濃陽志略』)材木商の長谷川家はこの地の豪商であり、その取引はほとんど全国に及ぶという。

明治維新後は民営となり、大正三年に至って株式組織とした。川下げは鵜沼までの責任であり、綱場で組立られた筏は古井村地先の”木曽川筋筏検問所”まで乗り下げ、乗人を代えて鵜沼まで乗り下げていた。

綱場の情景

加茂郡誌から
「同地は木材運搬の業、盛にして幕府時代に徳川氏の御用材を搬出せし所なり、現今に至るも飛騨地方及び本郡の東部ひて伐採せし木材狩下をなし、に於て一時繋留し筏に掻き立て、これを下流に送る。川中綱場には筏の組立に従事するもの、及びこれが乗り下げに従うもの等往来絶えず、市街殊に賑わしく頗る奇観を呈ず」

「九月下旬より翌年四月中旬に渉り従事す。其の最も盛んなる時期三、四ヶ月間は時、毎日の人夫三百有余人にして筏乗下高六、七十乗を算し、従事者は時寒中に発するにもかかわらず、鶏鳴以前より竿鉤を巧に操縦し、水面に嫁ぐ元気の状況実に望外の壮観なり」

参考
大矢兼成、加藤鐐三、蟹江猛、佐々木焏三、森留吉『筏』(日本いかだ史研究会、昭和54年)126-130頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
川辺町史編さん室『川辺町史 通史編』(岐阜県加茂郡川辺町、平成八年)349頁

加茂郡川辺町下麻生
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