元々、この地には医王薬師、生肉如来と呼ばれる一寸八分の霊像があり、日吉・月吉という武人が大蛇を討って人々を救ったという。この薬師は、元正天皇(715-723)の第二皇女の病を境内の疣石(いぼいし)に移して治し、天皇の帰依を受けた。
あるとき、葉の虫食いの跡が全て経文になった桜の木が現れ霊桜木として不思議がられた。弘仁元年(810)比叡山円仁(慈覚体師)の直弟子・覚祐が諸国遍歴の途中、この話から霊感を受けて、この木で薬師如来像を刻んだ。三年を経た弘仁三年(812)に堂宇ともに完成し、前述の一寸八分の伊薬師像はその胎内仏となった。桜の葉の法名により端桜山法明寺と名付けられた。
この頃、嵯峨天皇(809-822)が重病になり覚祐が祈禱して効験を示したことから、勅願寺となって七堂伽藍が建立された。さらに封戸・寺領を授けられ、やがて本坊十一、被官坊十二が並び、比叡・高野と並んで日本三山とよばれた。こうして法明寺は国分寺に準ずる定額寺となり、覚祐は仏教の「空諦・仮諦・中諦」を極めた三諦上人の号を賜った。元慶三年(879)十月、屛風山の奥之院参詣中に上人は忽然と姿を消したという。
鎌倉時代には幕府から寺領五十貫(250石)、二条左大臣から小里・荻原を祭領として、日吉・月吉を般若領として、右大臣からは信州高井郡内で十貫(50)石の地を受けた。その後、室町時代を経て天台宗の末寺となりなお栄えていた。
戦国時代、元亀二年(1571)十月十八日、森長可と神箆城主・土岐三兵信友に謀叛した家臣石原善四郎によって焼かれた。間もなく、薬師を焼いたことを悔いた森長可と薬師焼失を惜しんだ城主土岐信友によって、五間・八間の堂宇が再建され、諸仏は彫造彩色され、再び整えられた。
関ヶ原役後、岩村の領主たちは薬師信仰を支えた。岩村城主大給本家・松平氏は神箆村を領し、初代・家乗は慶長十八年(1613)十月に絵馬を奉納した。二代乗寿も喜捨を続けた。松平氏に代わって領主となった丹羽氏も薬師を信仰し、慶安四年(1651)に二代氏定は弁財天を再建した。
万治三年(1660)、天台の高僧・修繕院権少僧都永秀が上洛の途中で名刹薬師の荒廃を惜しみ再興を発念した。帰山を取りやめ弟子僧らと復興に着手したが、老齢で弟子賢秀に託して没した。賢秀は遺志を継いで、永秀の直弟子良秀(中興二代権大僧都)や広海・宗心・西連・宗済らと再興をすすめた。再興は実を結び、寛文七年(1667)に現在の堂宇が落成した。丹羽氏三代氏純が大檀那となり、寛文十一年(1671)の絵馬(市・県重文)をはじめ、以後も享保・文政期の絵馬が奉納された。このあとの分派松平氏も代々喜捨を続けて、享保・文政絵馬(市・県重文)などを奉納され、郷民の信仰も厚かった。
やがて明治の廃仏棄釈の際に法明寺は廃寺となった。薬師は残って桜堂薬師と呼ばれて今日に至っている。
参考:『瑞浪市史 歴史編』(瑞浪市、昭和四十九年)220、221頁