上野村の人。
『信長記』の小豆坂合戦の條によれば、下方左近、その時は彌三郎、十六歳....云々。ただ一人、突立って追い返し、万死に一生の身を免れて、勝鬨を上げたという。幕末頃まで「小豆坂の七本槍」として、子どもたちにも語り継がれていた。『太閤記』の岡田助右衞門の伝のうちに、永禄のはじめ、下方左近将監六度、柴田修理亮五度、岡田助右衞門四度と数えて言ったのは、みな最初槍の事である。
慶長十年(1605)七月四日死去し、法號を永弘院心源淨廣居士という。そして当所に一寺を建て、承雲和尚が開山し、臨済宗、京都妙心寺の末寺とし、法號によりて永弘院と號した。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)