反魂香塚

別れた親子

※正確な場所は不明

阿波手の森の東にある堤の下にある。

光仁天皇の天應元年(781)、河内権守紀是廣の子が、七歳にして父を尋ねて東国に下ろうここまでやって来たが、病を患い亡くなってしまった。父の是廣は、出羽より上っていたところ、ここに来合わせ、我が子の死を聞き、智光上人を頼んで反魂香を焚き、しばしの冥会を遂げた。その跡が塚となって今もなお残っている。詳しくは名古屋七ツ寺の條に記しているので、ここに略す。

また、『正法寺縁起』に記されているところによれば、当寺の開祖である東岩和尚がこの浦に草庵を結んでいたが、光仁天皇の宝亀十一年(780)、奧州・信夫ノ里より若い夫婦(夫を恩雄 [やすたか] 、妻を藤姫という)が上京しようとしてここまでやって来たが、藤姫が病にかかり、遂に亡くなってしまった。病床で一首の和歌を詠み、恩雄に書き残した。

忘るなよ 我身きえなば後の世の くらきしるべに 誰をたのまん

恩雄これを見て、悲歎のあまり、東岩和尚を請じて営ませ、自ら剃髪して弟子となり、藤姫の塚の邊(ほとり)に庵を結び、菩提を弔った。この時、恩雄は二十一歳、藤姫は十六歳だった。法名を大空了覺信女という。藤姫の位牌は権藥師にある。

その後、天應元年(781)、 橋本中将が関東に下向された際、粟手の森の古跡など、ここかしこ遊覧され、かの恩雄法師の庵を窺い、本尊の薬師仏が尊く、庵主も若き身にして殊勝に念仏しているのに感じられた。法師の身の上を問うと、法師もしかじかと語れば、中将卿はとみに顔色を失った。

泣々語られた所によると、その藤姫(先の話の妻)は我が奧州に左遷した時、賤の女の腹に宿した我が子である。我が帰洛ののちは音信も無かったが、母は死に、その子は汝恩雄法師に嫁ぎ、ともに我を慕って上京しようとしたものの、ここで亡くなってしまったとは、事の儚さやと。

遂にその師の東岩和尚を請じて反魂香を焚き、秘法をも修したところ、香り冥会をとげる。かの中将卿は悲喜の泪をしぼりつゝ、

魂を 反(かへ)すにほひのありながら 袖にとまらぬ むかし悲しき

と詠じなさったので、法師も、

思ひきや花のすがたの香を留めて烟の中に見なすべしとは

と詠じる。

それよりこの塚を「反魂塚」と呼んだという。詳しくは『縁起』にあるが、事長ければここに略した。さていえる傳説あれど、七ツ寺の縁起とは大いに異同あり、一定でないので、今二説ともに略して、以て後考に備えるのみ。案じるに反魂香の事蹟は我が国では当所に限り。彼の地(中国)では『白氏文集』『東坡詩集』等の註にのみ見えて、その他の史籍には載っていない。またその法を知る人も絶えて久しく、その名がここに朽ちたのは甚だ珍しい。

千村鼎臣

金釵埋沒ス幾星霜。 獨荒墳ノ路傍ニ倚ル有リ。千里追ヒ尋ネテ曾チ此ニ到ル。一身難苦備ニ能ク嘗ム。反魂香古リテ音容絶シ。墮涙碑殘ツテ感慨長シ。 時ニ憶フ聊カ紙錢ヲ焚キ去リ。不逢林下藤姫ヲ弔フ。

『暢園詠物詩』

岡田新川

馬鬣封猶在リ。荒凉古道ノ邊。偶遊目ノ日ニ逢ヒ。遙ニ反魂ノ年ヲ想フ。影ハ冷ナリ三篙ノ水。香ハ銷ス一炷ノ烟。豈桑海ノ感無シヤ。掁望枯蓮ニ對ス。

青生元宣

粟手人訪フ無シ。郊原草色平ナリ。反魂香火ノ地。懷古情ニ勝ヘ不。

柴山東巒

正ニ是レ春光盡キント欲スル時。落花芳草藤姫ヲ弔フ。思ス往事ヲ追豈涙無ンヤ。祠畔猶餘ス連理ノ枝。

竪並集

粟の穗にわれからと鳴く虫もがな 琴宇
薄煙る草や粟手の夜のつゆ 松兄
秋もはや暮るゝやうなり鳥の聲 天老

参考
『尾張名所圖會 前編 巻七』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)