伊勢街道最大の難所とされた勝地峠。
往昔、この峠はけわしくて、馬にて行く人も道悪しき為、歩(かち)にて通りし故、歩路(かちぢ)といいける由
『多良根源記』
天正11年(1583)秀吉が北勢攻めから美濃へ転進の時にはこの峠を越え、関ヶ原合戦で西軍が敗戦となったとき、島津隊の残兵が伊勢街道を南へ走り、この峠を越えて時山・五僧を経て保月越で近江へ入っている。
このように古来より美濃・伊勢を繋ぐ要路であったが、江戸時代になると旅人や商人等の往来が増加し、道の修理なども、毎季村々から出て間違なく実施されたことが古文書にみられる。
文政十三年(1830)に芭蕉の句碑が建立された。勝地峠から旧勢州街道を南へ約100m下った東側にある。文禄の頃、小郷の割に広漠たる市之瀬村と、請山契約した下多良村で「おきて山」があったが、230年程経って掟山の境界争いや掟違背論が起こった。文政十三年(1829)に江戸公訴の直前で内済されるまで十余年論争が続いた。その間に、下多良村の百姓は一時立入差留され、田畑に不可欠の緑肥や秣(まぐさ)の苅場を引き揚げられ困窮の極に達したようである。
内済では、掟山の中下多良より遠く立ち入り悪く、逆に市之瀬より近く立ち入り易い中の谷は市之瀬のものとなった。また、今まで掟山では芝草のみ刈り取れたが、今後は立木も伐り取れるよう改め、その代り年貢は増額された。内済の後、領主の地頭石河家の指図で、内済による境の一番杭の辺りに句碑が建てられた。
山路来て何やら床し菫(すみれ)草
安政年間より設置されていた弥宜上に番所が置かれていた。元治元年(1864)四月、水戸藩士の武田耕雲斎が尊王攘夷の志で天狗党を名乗り、同志1600余名を率いて京へ上がろうとしていた。天狗党が中山道を通り関ヶ原が焼討されるおそれがあると幕府よりおふれが出された為、高木家は勝地峠に木戸(番所)を11月29日に置いた。『浮浪一条筆記』によると、12月1日には高木三家で70名ほど、槍、鉄砲弐重挺、足軽弐重人、大筒(大砲)を置いた。12月7日には浮浪の者は越前へ越えたと垂井辺りは静かになり、12月7日より3人となった。当時の『勝地御番所御固帳』によると、高木三家より毎日徒士一人、足軽二人計三人づつ出張り、昼夜交代で番小屋に詰めていた。そして通行人を取調べ、特に帯刀した者が通った時には、名前や行先などを細かく尋ねて帳面に書き留めた上で通している(『勝地番所御固帳』)。慶応四年(明治元年-1868)には新たに番所を建てたが、明治二年(1869)二月に戊辰戦争終結で各地の関所が廃止され、勝地番所も廃止された。
なお勝地番所は元治元年に設置された勝地峠の番所碑跡と、そこから200m程下った慶応四年の伊兵の畑と場所が異なる。
参考
『上石津町史 通史編』(上石津町、昭和五十四年) 325-338、51-353頁
『ふるさと下多良』(三輪正典、令和五年)97、98頁