久野部村にあり。延暦九年(790)に開基し、康元元年(1256)に後深草天皇の勅願所となり、本堂を再建した。また別院もあるほど往時は有名な大寺だったが、元亀年中(1570-1573)に兵火に罹り灰燼となった。現在は僅かに堂宇を残すのみ。
往古、この里に長者がおり、下婢に畑地へ豆を種えさせた。婢は力を尽くして栽培したところ、よく伸びて多く実った。
ある日、鳩の飛来し、悉くその実を食う。婢はこれを見て大いに悲み、主人に謝罪するに言葉もなく観音に祈誓して再たび豆が生えるよう願った。そうするうちに一夜のうちに豆が生え。その幹は大きな樹のようになった。
婢は大いに喜び梢に登って、豆を採ると、一つの幹から三石六斗(約650l)を収穫し、主人に献じた。後にその幹を伐り太鼓の胴を作った。直径三尺(約91㎝)周囲一間余(約1.8m)あった。江戸期には堂の傍に掲げられ、世の人は豆幹(なめから)太鼓という。
参考:『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)447、448頁