大慈山岩屋寺。岩屋寺村にあり。天台宗、野田密藏院の末寺。もと「巖窟寺」と書かかれ、一山に巨巌多いことから寺号とした。『尾陽雑記』に、勅使・押小路中納言尙實卿が下向して、「天眼光寺」と勅号を下したという。
霊亀元年(715)の創建、聖武天皇の勅願で行基菩薩が開山した。『本園名勝志』には岩屋千眼光寺、須佐掃部助長治草創と記す。
永享九年(1437)丁巳の火災で、記録等が焼亡したとされるが、伝承では、弘法大師がかつてこの地に来て、清浄の密場であることから、百日の護摩を修し、正観音の霊像を巖穴に崇められた。この岩窟は当寺の奥の院にあり、女人結界の橋を架け、そこを女人の拜所とする。実に一區の霊場である。
慶長五年(1600)の秋、九鬼大隅守、寺賓を奪おうんとして、堂宇に火をかけたが、燃えずに止まった。その燒痕は今も柱に残っている。往昔は十二坊あったが、その後退廃し、今は僅かに中坊・橋坊・谷坊・南坊・杉坊の五坊のみ残る。
千手観音は、文珠菩薩の鋳造した閣浮檀金の尊像で、唐の楊貴妃の守本尊であったが、衆生濟度のため、大海の潮に漂い、此地に来られた。その頃、須佐村の土民に藤六という正直一偏の者があった。 霊像は藤六へ夢の中で告げさせなさり、北方に巌窟の霊場があり諸神影向の清浄界である。いそぎその地へ我を遷すべし、との霊夢に従ってその浄域に安置した。近世、当郡八十八窗所の札所を定めるにあたりその第一番として、信者の参詣は常に絶えることが無い。
宋板の一切經:右衛門尉盛光寶德三年の寄附。
阿弥陀土像:弘法大師の作。
涅槃像:兆殿司の筆。
紺神金泥法華経:傳教大師の筆。
同阿弥陀経・同心経:中将姫の筆。
役行者錫杖:一枝。
この他三十余種の奇品あり。文化年中(1804-18)に寛海律師(豪潮)が当寺に住み、数多の資財を出し、本堂の前後の巨巖の凹所や山腰の小高い所へ、石に彫刻した佛菩薩や五百羅漢の像まで、数多く安置し、衆生結縁の方便としたが、 今はさながら苔むして、さらに尊く感じられる。実に当國第一の清浄境であり、律師の功徳も廣大というべきである。また律師は近世の名僧で、持戒を堅く守り、仏教及び儒学に通じ、傍ら書画にも優れた。著述した書もまた少なくない。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)