天文(1532-1555)の頃、熱田の商家に一人の娘がいた。尾張第一の美人であると評判であった。◎古渡の城主・織田備後守信秀は、これを伝え聞き、その女を乞いなさったが、父母は武家奉公を嫌い応じなかったため、信秀は怒り、多人数を遣わし、無理に女を奪い取り、城中に置いて寵愛し、男子一人を産んだ。信長公の弟越中守である。やがて備後守が没した後、母子は共に熱田に蟄居していたが、母は再び知多郡小川(現東浦町)の水野下野守信元に愛されて、さらに女子三人を産んだ。いわゆる、常滑の水野監物の室(妻)・河和の水野孫八郎の室・大崎七郎右衞門の室である。
越中守は、いかなる故か武名の伝えもなく、織田の系図にも漏れて、後世に知る人も稀であることが『尾陽雑記』に見える。熱田の神庫の宝物に、「文祿參年(1564)申七月七日織田越中守奉寄進」と裏銘に彫られた長剣一振がある。その頃、母と共に熱田に居住していたというが、その居地は定かでない。熱田の商家の女と有るに照らし合わせて、この伝馬町は昔から豊穣の商人が多い町であるため、ひとまずここに書き記す。
参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)