大野木川の前にある庄内川の長堤をいう。この川が洪水の時は水災の恐れがあったが、今はその事はなく、万億の民が安堵している事は、洗堰に詳しい。
この堤が春の頃、紫雲英・蒲公英等が芝草にまじって麗しい事は、三百年以上前から現在も変わらない。紹巴の『富士見道記』に、
大野木ニ於テ義元(塙茂元は当村連歌をよくす。此義元とあるは茂元の誤りなるべし)
春草の花もて水をつゝみかな
とあり。その頃には大野木堤があった事が分かる。さて天明三(1783)卯の秋、(新川を掘り割る以前で年々水害があった頃)大雨が降りつゞき、庄内川は洪水し、大野木堤は大きく崩れ落ち、危険が迫った。人夫を下知して防いだが、風雨荒く面を打って、働く事が出来なかった。終に堤が切れ入ったと見えるのを、源明公に聞かせ、熱田大神宮へ雨晴の祈誓をかけさせると、俄かに神風が吹き出し、たちまち雨がやみ、雲が晴れていくと、社輩をはじめ居合わせた人々は、奇異に思い、今に恥じない神徳かと仰いだ。大野木ではそうともしらず、精力をつくし防いで居たが、不思議であるかな、俄かに瑞風が吹き来て、雲霧を払い、直ちに晴天となり、白日赫々(太陽が煌々と)と輝いたので、人夫は力を励まして、ついに堤を築き留めた。
さて国君(藩主)から熱田大神へ晴雨の祈誓された事を聞き伝え、もし雨が止まず切れ入る時は、田畑はもとより人家も水底となり、人命にも及ぶところであったから、民を救われた御仁恵により、このような御祈もあったのであれば、この御禮に馬の頭を出して、御城の辺りを引き廻らそうと、大勢の人々が枇杷島まで来て、枇杷島下小田井の庄屋はこれを止め、大切な場所へ馬を曳き行く事は、もっての外の恐であると、馬はそのまゝ返したが、その代として、大野木辺りの川浚をして、その土はもって少しであるとしても、堤を自普請すれば、これに勝る報恩はないと、官府の許しを得て、同年十二月四日鍬はじめをし、在町から集まった人数は二千人以上ときこえた。この日から日毎に引きもきらず浚をすることは、前代未聞の事である。なお詳しくは、その時の惣代であった一東利助實雄の撰の『御冥加普請の記』に譲って、あらましを略抄する。
枇杷島の川通である大野木の堤は、毎年五月雨に水位が増すと、堤が切れて崩れる年もあって、田に畑に、被害が出ることもあったのを憂い、賢明にもあれこれ思い巡らし、かの川原の渚の土砂を取り、堤の上に積み上げようと思う心積もりを聞き、人々はそれぞれの川の辺りに集い、毎日大量の土を運び強くしようとする。天明三年(1783)の冬の末に始めて、明けの年の春もなおしている。かくしも君と民と麗しい様子は、近い世にも聞き及ばないので、後の世にも伝えて、写し絵にする心をいさゝかその端に書きつけておく。
おほけなく君がめぐみのむくいわがする大君のめぐみしるべき我ならなくに 道麿
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)