勝栗村にある。『神鳳抄』に尾張國内宮上搗栗御厨(漆畠一町)内宮下搗栗御厨(漆畠一町)と見えるが、今は御厨は廃れている。 漆は丹羽郡の名産で、漆畑がこの地に多くあった為にこのように書かれている。
永祥(永承?)年中(1046-1053)の尾張解文にも、
請被停止號有藏人所召。例貢進外加徴漆拾餘石事。右漆丹羽郡土産也。例貢進藏人所召三四斗也。然而所徴已以巨多也云々
(:蔵人所(天皇の秘書官庁)の召し有りとして、本来の税(貢進)の他、漆十石余り(約1800l以上)を追加徴収を停止する事を請う。右の漆は丹羽郡の特産である。本来の税は蔵人所に三四斗(約54-72l)のみであるが、取り立て量が莫大である
云々と記されているが、今は丹羽郡で漆を産出する事なく、漆畑もない。三、四百年当國に漆のない事は、古書に見える。信長公が甲府の武田家に漆を求めたことによって分かる。それは『甲陽軍鑑』に、元亀二年(1571)霜月下旬に、織田信長から佐々權左衞門を使者として、金具の鞍鐙五口を進上し、また甲州漆を所望ということで、高坂彈正に命じて、甲斐國漆三千杯を佐佐權左衞門へ靑沼助兵衞方より渡す、とある。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)